「ONの尽瘁(じんすい)」(8)―(玉置 肇=日刊スポーツ)

1985(昭和60)年11月18日。ドラフト会議は2日後に迫っていた。当時日刊スポーツの巨人番記者だった私は、同じ社の先輩記者・Kとともに宮崎での秋季キャンプを取材していた。この日チームは練習休みで、監督の王貞治は宿舎近くのゴルフ場で知人らとラウンド中だった。Kは取材のためゴルフ場に向かった。手にサイン色紙を携えていた。
私はというとチームの宿舎でドラフトに向けたフロントの動きを探る役割だった。ありていに言って、Kも私も王巨人がドラフトで誰を1位指名するか、決め手に欠けていた。事情はライバル各紙も似たりよったりで、王の判断はそれほどつかみきれなかった。
清原和博か?桑田真澄か?
投打でともにその夏の甲子園を席巻したPL学園(大阪)の超高校生コンビに、間違いなくその年のドラフトは支配されようとしていた。ただドラフトが近づくにつれ微妙に変化する王のコメントが、番記者の判断を鈍らせた。もしかしたら彼ら以外の第3の選択もあり得るかもしれない…。
PL学園の優勝直後、王は紛うことなく清原の遠くへ飛ばす天分を絶賛した。清原自身も尊敬する打者に王の名を挙げ、巨人でのプレーを熱望した。
ところが、9月に入り巨人の優勝が絶望的になると、王の発言は変容をみせる。「現有戦力では投手の絶対数が足りない。将来のことを考えると文句なく清原君だけど、将来より来年だからね。その辺がスカウトとの協議のポイントになる」。
とはいえ王が即戦力投手への方針変更をにおわせても、そこに桑田の名前が直結するわけではない。王はかねて桑田の印象を聞かれ「彼の身長(174㌢)では、プロではちょっと難しいんじゃないかな?」と体力面での懸念を示していた。それに桑田は早くから早稲田大学への進学を公言し、プロ入りを拒否する構えだった。言わば清原の1位は巨人にとって消えそうで消えない、ろうそくの灯火のようでもあった。
王のこうした発言の変容が意図的なものだったかどうかはわからない。ただ指揮官を含め、それを桑田獲りへの「演技」に使った形跡がそこかしこにうかがわれた。
清原との蜜月関係をマスコミはどこも疑っていない。巨人は、そこを突いた。清原1位への流れを作れば作るほど桑田の名前はその〝隠れ蓑〟になっていった。元より桑田サイドの進学説も後を押し、こうしたうごめきは後に「密約」とまでささやかれた。
ドラフト前、清原と12球団スカウトとの面談が行われた。ひととおりのあいさつが済み、巨人の関西地区担当スカウト・伊藤菊雄は清原と両親にこう言った。
「野手では1番の評価をしています」。
高評価は伝えたものの、1位指名かどうか、あえて言質は与えなかった。「野手ではー」の語句がやたら清原ののど元に引っかかった。
話を、冒頭の先輩記者のサイン色紙に戻す。Kはラウンドを終えた王をつかまえ「清原君にメッセージを」と色紙を差し出した。王がそれに応じれば清原の1位は不動、ちゅうちょすれば回避。それがKの読みだった。何事にも慎重な王のこと。この手のメッセージが何を意味するか、過敏なほど認識しているはずだった。
果たして、王は二つ返事で応じた。緩やかな表情のまま色紙に「清原和博君へ 努力 巨人軍王貞治」とペンを走らせた。さらに王は、Kから「清原回避」の可能性を聞かれ、「それは来年確実に10勝できる即戦力投手がいればのことだね」と言い切った。翌日(11月19日付)の日刊スポーツ1面は「王 清原に傾く」とデカ見出しで報じた。
それが王の演技の集大成だったと気づくには、私も、Kも、あまりに遅すぎた。(続)