「スポーツアナウンサーの喜怒哀楽」(2)-(佐塚 元章=NHK)
◎クモ男との遭遇(後編)
▽9分間実況は適切だったか、自問自答続く
忍者姿の覆面男が広島市民球場のバックネットによじ登った「珍事」は、少なからず衝撃をもたらした。1990(平成2)年5月12日夜、私が実況するNHK総合テレビの中継を狙って、覆面男は巨人批判の垂れ幕を掲げたのである。
ナップサックから何かを取り出し放り投げた。3万観衆は驚き、見つめる。私はスポーツ実況から、これは報道実況なんだ、と気持ちを切り替え、「男がグラウンドに何かを投げました」とアナウンスを始めた。それは手製の発煙筒だった。ホームベースの後ろで煙が立ち昇る。爆発はなかった。球場職員らが激しくネットを揺さぶって男を落下させた。男は駆けつけた警察官に現行犯逮捕された。犯人は39歳、職業は林業で、いわゆる「木こり」のためステンレスのバックネットを素手ですいすい登れたのだ。
試合中断9分の間、私のアナウンスは適切だったかどうか。正直に言えば、気持ちが高揚し野球中継にスムーズに切り替えられなかった。特に「巨人ㇵ永遠ニ不ケツデス!」「天誅!悪ハ必ズ滅ビル!」と書かれていた垂れ幕を読み、行動の背景まで伝えるべきだったのか。さらに、もっと解説者2人を巻き込み、肩肘張らずに会話を進めるべきだったのではないか。実は、今でも放送はよかったのか適切だったのか、自問自答している。
球場は試合終了まで変なしらけムードが漂い、放送席もいまひとつ盛り上がらなかった。たまりかねた放送席のFD(フロアディレクター)だった眞々田邦博さん(現東京プロ野球OB記者クラブ副会長)が「皆さん、気分を切り替えて楽しくいきましょう」と実況担当者を励ましたのを覚えている。皮肉にも視聴率はクモ男がバックネットに登場した頃から急上昇し、関東地区で30%を超え、広島ローカルではさらに高視聴率だった。
被害者はもう1人、広島先発の川口和久投手に及んだ。中断の待機で集中力が切れ、再開直後に連打を許し敗戦投手になった。私は、この試合のビデオを紛失しNHK、カープ関係者に当たったところ、存在しないといわれた。川口投手の自宅にまで電話を入れたが、奥さんから「勝利投手になった試合しかビデオは保存していません」と返事された。これでギブアップした。
このコラムの前編冒頭で、新人アナの研修後に聞いた先輩アナの言葉を書いた。「定年までに皆、平等に1回は放送の修羅場に遭遇する。その時君の実力が試される」。アナウサー人生半世紀、私にとっての修羅場はあの「クモ男事件との遭遇」でした。(続)