「スポーツアナウンサーの喜怒哀楽」(3)-(佐塚 元章=NHK)

◎さよなら福岡のライオンズ ~大波をかぶったアナウンサー~
 1972(昭和47)-78年はプロ野球史の波乱に満ちた7年間であった。「栄光」の西鉄ライオンズは親会社、経営母体、スポンサーが変わったことにより“太平洋クラブ→クラウンライター→西武”と目まぐるしくチ―ム名が変更された。
 チームは経営難を背景に不振が続いたが、それでも75年には、江藤慎一監督のもと、東尾修、白仁天、土井正博らの活躍でリーグ3位と健闘した。73年にロッテとの遺恨カード、77年にはクラウンライターがドラフト指名した江川卓の「交渉拒否」など話題にも事欠かなかった。
 しかし、78年を最後にライオンズは福岡市から所沢市に本拠地を移し、新生西武ライオンズとしてスタートすることが、東京のオーナー会議で承認された。その日、10月12日にNHK福岡の夕方ニュース番組では、リポーターが平和台球場のマウンドに立ち「1番高倉、2番仰木、3番豊田、4番中西・・・9番稲尾」と黄金時代のラインナップを伝え、九州からプロ野球の灯が消えることを嘆いた。
 それは私にとっても「衝撃の日」、アナウサー人生で最も悲しい日だった。新人として5年間、徳島放送局で基礎訓練を終え、認められてプロ野球放送ができる福岡に8月16日に勇躍転勤してきた。27歳だった。さあ、ライオンズに食い込んでプロ野球を勉強するぞ、と張り切っていた矢先のことだった。
 青天の霹靂、大ショックだった。私の失望ぶりに先輩も心配するほどだった。連日、ライオンズ戦を放送していたRKB毎日や九州朝日放送のアナウンサー仲間も気の毒だった。中には退社して東上する人もいた。新聞記者も同じだった。地元スポーツ紙は廃刊に追い込まれてしまった。まさに死活問題だったのである。
 私は結局、プロ野球のない福岡に3年間お世話になった。もちろん、福岡国際マラソンや博多祇園山笠中継などさまざまな放送の体験をさせてもらったことは、アナウンサーとして役立ったことも事実である。しかし、仕事のメーンであるはずだったプロ野球放送が福岡でできなかった「空白の3年間」はその後のライバルとの競争や人事異動にも影響した。福岡のあと、広島に転勤しあらためてプロ野球アナウンサーとしてスタートすることになったのである。
 転勤11回、「あの任地で、あの出来事と遭遇…」「あの任地であの人との出会い…」など、OBとなっていろんなことが思い出に残っている。それがマスコミ人の転勤人生というものだろうか? (続)