「ノンプロ魂」(12)-(中島 章隆=毎日)

◎第4回 名将の空白埋めた3年間・野村克也(下)
 社会人野球・シダックスの真っ赤なユニホームにそでを通した野村克也の1年目は、社会人野球の最高峰、都市対抗野球大会で決勝戦まで勝ち進みながら「あと3イニング」で3点リードを守り切れず、頂点を逃した。エースの野間口の継投機を逸した監督の判断ミスが最大の敗因だった。試合後のミーティングで野村は「投手交代が遅れた。自分が決断できなかったことが大きな敗因」と選手に詫びた。
 都市対抗の「借り」は都市対抗で返すしかないのが社会人野球の鉄則だ。翌04年の第75回大会も、野村率いるシダックスは東京都の第1代表の座を確保し、東京ドームに乗り込んだ。だが、レベルの高い社会人野球にあって、その頂点を極める都市対抗野球大会は簡単に勝ち進める大会ではない。2年目の野村シダックスは1、2回戦こそ勝ち上がったが、準々決勝で春日井市・王子製紙に3-6で敗れ、またも頂点に届かなかった。
 さらに3年目は東京第1代表になれず、第2代表で都市対抗に出場したものの、本大会は1回戦で敗退という屈辱を味わった。野村にとっては、1年目に手中からするりと零れ落ちた「優勝」の2文字がことさらに重く感じる3年間となった。
 野村が苦戦している間、古巣のプロ野球は激震に見舞われていた。04年6月、慢性的に赤字経営が続いていた近鉄球団が同じパ・リーグのオリックスと合併すると発表。球界再編騒動が勃発した。
球団削減に反対する労組・プロ野球選手会はペナントレース終盤の9月に史上初のストライキを実施。12球団によるセ、パ2リーグ制が果たして継続できるのか、危ぶむ声が出るほどの大騒動となった。
球界再編騒動は、楽天が新加入することで12球団体制が維持されることとなり、決着した。セパ交流戦の実施など、リーグ間の格差是正に向けた施策も05年シーズンから実施されるなど、選手会のストによる球界改革も実現した。
こうして迎えた05年のシーズン、3年目となった野村シダックスは大きく様変わりした。まず、エースの野間口は前年秋のドラフトで巨人から1位指名されてプロ入り。キューバからの強力助っ人もチームを去った。考え方によっては、野村の「チーム作り」が真価を発揮する機会とも思えたが、別のファクターにより、野村の身辺は騒がしくなった。仙台に本拠地を置いたパ・リーグの新球団、東北楽天の不成績だ。
もとより「寄せ集め」の戦力で、苦戦は折り込み済みで始まったシーズンだったはずなのに、想像を上回る「惨状」を露呈した。ロッテとの開幕戦は、近鉄からオリックスへの移籍を拒否した岩隈久志が完投し、記念すべき白星スタートを切ったが、翌日は0-26という歴史的大敗。4月は泥沼の11連敗を喫するなど苦難の船出となった。
初代GMマーティー・キーナートは開幕1カ月で解任、5月には山下大輔ヘッドコーチ、駒田徳広打撃コーチが2軍降格と粛清の嵐がチームを襲った。監督経験ゼロながら3年契約を結んだ田尾安志の身辺にも早々と波風が立ち始めた。
「やはり、経験豊富な監督でなければ新しいチームを引っ張ることはできない」という名将待望論がささやかれるようになった。そこで候補に挙げられた一人が野村だった。
6月に70歳になった野村の「古希を祝う会」が7月1日、都内のホテルで開かれた。政財界や芸能界からも多くの著名人が参加。その席で、沙知代夫人がこんな発言をしたという。
報知新聞記者で、シダックス時代の野村の番記者だった加藤弘士が2年前に上梓した「砂まみれの名将」(新潮社)の中でこの時の模様を記述している。
<会の終盤、名将の「理想の死に様」に話題が及んだ時だった。「ベンチであの世に行くのが僕らしくていい」と笑う野村に、沙知代は語気を強めた。「カツノリがサヨナラ本塁打を打って、喜んでそのまま倒れちゃうのが、一番いいでしょ」>(同書213頁)
野村夫妻の愛息・克則(登録名カツノリ)は、前年秋、巨人から戦力外となり、トライアウトで楽天に入団していた。カツノリがいる楽天で指揮を執ってほしい、という沙知代の願望を遠回しに訴えたようにも聞こえる言葉だった。
結果は沙知代が願った通りになった。楽天球団は9月、田尾の退任を発表し、後任として野村に監督就任を正式に要請。野村が受諾して阪神監督を退いてから4年後、再びプロ球界に復帰することが決まった。
正式発表後、野村は3年間のシダックス時代を振り返り、「プロとアマ」の違いについて、こう語っている。「アマチュアの選手は謙虚にプロの教えを吸収しようとする。しかも給料はレギュラーも控えも同じ。銭金がからまないから、指導しやすく、楽しかった」
ヤクルト時代とシダックスで野村監督の下でコーチを務めた小林国男は野村の監督としての変化をこう表現した。「プロ時代は、ボヤキで選手を反発させて成長させたが、社会人では選手をほめて勢いに乗せた。監督は今も勉強し続けている」
野村は東北楽天を4シーズン指揮し、74歳で退任した。18歳で南海(現ソフトバンク)のテスト生としてプロ野球の世界に飛び込んでから半世紀余。その長い野球人生の中で、社会人野球に関わったのはたったの3シーズンだったが、プロの長丁場のペナントレースと違い、社会人は「負ければ終わり」の真剣勝負の連続。野村自身、何ものにも代えがたい貴重な経験を積んだ3年間でもあった。(この項終わり)