「菊とペン」(52)-(菊地 順一=デイリースポーツ)

◎現役時代に危うく警察沙汰になりかけた取材…
取材にはアクシデントが付き物で、ドジを踏んだことが何度かあった。
30代半ばの頃だった。某球団の本社筋の××氏宅に夜回りした。重役クラスである。
自宅はマンションだ。7時前に到着し、エントランスで待った。××氏は毎晩飲んで帰ることで知られていた。
まだ帰ってないだろう。足元のタバコの吸い殻が増える。9時になった。ああ、10時になった。
その時、疑念がムクムクと頭をもたげた。ひょっとしたら、今日に限って早く帰っているのではないか。
ピンポンを押すか。マンションは出始めの頃の古い物件でエレベーターはない。階段を使う。管理人もいない。
当時のセキュリティは現在からは考えられないくらい緩かった。とは言え××氏は大物である。一瞬、ためらったが、それでも押した。
ピン、ポーン。ドアもごく普通だ。ガチャというカギが開く音がして、「ハーイ、あなた、お帰りなさい」の声とともに玄関の扉が開いた。
目に飛び込んできたのはちょうど風呂上りだったのだろう。胸にバスタオルを巻いた少しお年を召した女性だった。
「キャーアアアア!」悲鳴が上がった。
「アアアッ―!すいませーん!」
こちらもビックリ仰天、気が付いた時には大急ぎで階段を駆け下り、駅に全力疾走していたのだった。背中に大汗をかいていた。
 まだある。今度は平屋の一軒家での出来事だった。本社の重役で球団の首脳の1人である。
 「まだ帰って来ていません」
「何時頃、お帰りになるか連絡が入っていますか」
「そんなものありません」
 待つしかないが、いくら待ってもお目当ての人はやって来ない。またもや、脳内に疑念の狼煙(のろし)が上がる。もう帰っているのではないか。
 裏口でもあるのか。回って調べた。あった。垣根越しにガラス窓が見えた。
「パチャ、ポチャ」という音とともに「フンフンフーン、ンンンン」という女性の鼻歌が聞こえてきた。
 目の前は風呂場だったのである。慌てて離れた。こんなところを他人に見られたら「出歯亀」と思われるのは必至だ。
 夜道に出ると、警察官が乗った自転車が2台現れた。首脳宅周辺は警戒重視地域だったのである。
間一髪である。裏の勝手口辺りにいたら、不審者と疑われて職務質問はまず確実だった。この時も冷や汗をかいた。
最近、後輩の皆さんは夜の取材をどうしているのだろう。コロナ禍を契機に取材先からの「ご遠慮ください」が主流になっていると聞くが。
それにいつの頃からなのか。個人情報の保護が前面に出て、住所などが一切漏れなくなっている。
以前は球団の広報がフロントや選手の住所が掲載された小冊子を配っていた。
市販の名鑑には住所はもちろん、奥さんや子供の名前、それに電話番号も掲載されていた。芸能人も同じで、あらゆる情報が出回っていた。
時代も変われば変わるものである。
最初に記した××さんから取材禁止のお触れが出ると覚悟していたが、以後もエントランスでの取材はOKだった。
××さんが太っ腹だったのか、それとも奥さんが悲鳴を上げたことを夫に内緒にしたのか。
それは定かではない。(了)