「100年の道のり」(77)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

◎不正試合の横行と選手会の創立
 戦後すぐ復活したプロ野球は多くのファンから支持を受けた。戦前の1934年(昭和9年)に日米野球で来日したベーブ・ルースのホームランを見た人々にとって、プロ野球復活は何よりも代えがたい娯楽だったことが想像できる。戦禍でその日暮らしの国民が大勢いたことも事実だった。
 古い野球人に聞いたことがある。「再開プロ野球の選手たちの生活はどうでしたか?」と。その答えは「ほとんどの選手は苦労していた。兵役から戻ってきたものの仕事はない。プロ野球に戻っても給料は安い。家族持ちは本当に大変だった。だから…」。この「だから…」は、敗退行為、つまり八百長試合に加担した選手が少なからずいた、という意味である。
 それが横行しているのを目の当たりにした野球人が立ち上がった。「このままにしたらプロ野球がダメになる」との思いである。
そこで考え付いたのが選手会の設立だった。発足は46年(昭和21年)11月。初代会長に就いたのは藤本定義だったが、彼はパシフイックの監督だった。選手会なのにトップは監督。この人事に球界の危うい事情があった。
 賭け屋と企んでいる選手が同僚を買収したり、不正が失敗した選手がその筋の輩から球場内で殴られたようなことが頻繁に起きた。あるチームの監督は婦人警官に疑惑選手の尾行を頼んだこともあった。また内野手の不自然な送球を見て監督自ら一塁を守って監視した。かなりひどい状態だったことが分かる。
 選手会誕生に参画した委員は各チームの主力選手ばかりだった。巨人の川上哲治と千葉茂、阪神の若林忠志と藤村冨美男、南海の鶴岡一人、阪急の野口二郎と青田昇、中日の杉浦清、金星の坪内道則と内藤幸三、セネタースの白木義一郎、パシフィックの白石勝巳と藤井勇らである。
 創立の表向きは「選手の待遇改善」としていたが、真相は不正防止だった。待遇改善は経営者側との交渉だから時間がかかる問題で、直接試合に影響することは考えられない。不正試合は直ちに手を入れなくてはならない。会長が監督というところに大きな意味が隠されていたといっていい。
 現在では考えられない生活費を稼ぐための敗退行為である。戦前からそういう試合はあったという証言もあり、敗戦後に大ぴらとなった。世の中がすさんでいたことを示す一つの現象だった。
 そして疑惑選手が次々とクビを切られた。こときの球界の英断がプロ野球に安定をもたらし、1リーグ制から2リーグ制に発展して行くのである。(続)