「いつか来た記者道」(74)-(露久保 孝一=産経)

◎甲子園100年を飾るにふさわし熱血漢
 高校の夏の甲子園野球は、ユニホームを汗で汚しながら球児たちが懸命にプレーする。選手たちは暑さより、ひたすら白球に集中する。ひと昔、20世紀までの高校野球の姿はそうであった。まして1世紀前の甲子園とあらば、暑さよりは勝つことに突き進んだのである。
 甲子園が開場して今年でちょうど100年になる。100年前の1924(大正13年)は、第10回高校野球大会(全国中等優勝野球大会)がおこなわれた。19校が参加し、その中に松山商業の名があった。同校は6年連続6回目の出場を果たし、ベスト8まで進んだ。翌年の第2回選抜中等学校野球大会では優勝を果たしている。この頃から、松山商業(現在は愛媛県立松山商業高校)は野球の名門校であったのだ。1918年、初代の野球部コーチ(監督)に近藤兵太郎が就いた。翌19年、同校は初めて全国出場を果たす。近藤が名門・松山商業の礎を築いたのである。
 しかし近藤は松山商業を去り、19年台湾へ渡った。25年に嘉義(かぎ)商工学校に教諭として着任した。28(昭和3)年頃から嘉義農林学校野球部の指導を受け持ち、31年に監督に就任する。同年、嘉義農林を甲子園での全国中等学校優勝大会に初出場させ決勝まで導いた。炎天下、台湾選手のハッスルプレーに観客から盛大な拍手が送られた。近藤が嘉義農林で野球を始めた時は、生徒はキャッチボールもまともにできなかった。そんな生徒を近藤は根気よく、忍耐と愛情で指導し、高校野球の一流のレベルまで上達させた。近藤は松山商業で夏1回、嘉義農林で春1回、夏4回甲子園出場を果たしている。
▽台湾の野球殿堂に入った近藤兵太郎
 35年夏の甲子園で、嘉義チームは準々決勝まで進んだ。ここでの相手は、松山商業となった。近藤監督の母校と知った嘉義農林ナインは、俄然張り切り出した。しかし、延長戦の末4対5で惜敗する。松山商業は勝ち進み初の全国制覇を成し遂げた。スタンドから試合を見つめた近藤は、かつての教え子で監督を務めた森茂雄に近づき、感激の涙を流して喜んだという。
 近藤が松山と台湾で激しく指導してからおよそ100年がたった2024年、台湾の野球殿堂(台湾棒球名人堂)に近藤兵太郎が入った。台湾の野球界で活躍した人を顕彰するのにふわしい指導者として満票で選ばれた。
 近藤はいう。「日本人、台湾人、先住民族が混ざりあっている学校、そしてチーム、これこそが最も良い台湾の姿だ。それが負けるとしたら努力が足りないからだ」。台湾と日本で野球を通じて友好の懸け橋となった近藤の姿は、甲子園100年の歴史を飾るにふさわしい。(続)