「いつか来た記者道」(82)-(露久保 孝一=産経)
◎壱岐島と水曜島からやってきた英雄
九州北西の玄関灘に浮かぶ壱岐島の長崎県立壱岐高が2025年3月、選抜高校野球大会に21世紀枠で初出場した。人口2万4000人の島を「100年に1度の奇跡」との熱気に包み、甲子園に挑んだ。1回戦で名門の東洋大姫路に敗れたが、離島で頑張っている球児の姿を全国の野球ファンに強く印象付けた。
「島から来た英雄」といえば、太平洋の島で生まれプロ野球の名投手になった男がいた。昭和初期、高橋ユニオンズで活躍した相沢進である。相沢は1930(昭和5)年、日本の委任統治だったミクロネシアのトラック諸島トール島(日本名=水曜島)で誕生した。島では日本人が持ち込んだ野球が流行(はや)り、運動神経に優れた相沢は夢中になってプレーした。
トール島の国民学校を卒業すると、父の祖国・神奈川県藤沢の実家に移り住んだ。湘南中、湘南高で学び48年、倉庫会社に就職する。職場の仲間と軟式野球チームをつくり、万能選手の相沢はエース兼4番打者として全国大会に臨み2年連続準優勝した。この活躍がプロの目に留まり50年に毎日オリオンズ(現千葉ロッテ)に入団する。「青天の霹靂、プロの選手になるなんて夢のようだ」と相沢は感激に震えたという。
▽名投手から大酋長への好ピッチングを称賛
しかし、プロの世界は厳しく4年間は未勝利、54年高橋ユニオンズにトレードされる。「超弱小球団」ながら、相沢は5月6日に阪急戦でプロ初勝利をあげた(シーズン3勝5敗)。55年、チーム名がトンボに変わり、同僚のビクトル・スタルヒン投手が9月4日、大映戦でプロ野球史上初の300勝をあげると相沢は自分のことのように喜んだ。相沢は4勝10敗だった。56年は1勝に終わり現役を引退する。その後、トラック諸島に帰った。故郷で相沢は実業家として成功し、地域共同体の酋長になり、多くの酋長が集まる会議で議長に推され「大酋長」と呼ばれた。ミクロネシアの発展のために尽くした相沢は、77年10月日本に来て福田赳夫首相を表敬訪問した。首相は「プロ野球投手から大酋長になった人生の好ピッチングだね」と称賛の言葉を贈った。
相沢は56年、佐々木信也内野手が入団して一緒にプレーした。佐々木は「僕は二塁手なので一緒に練習したことはない。食事をしたこともない」と話す。同僚からは「孤独を好むプレーヤーだった」といわれたという。大都市の高校やプロ野球の強豪チームは、華やかな試合、プレーが目立つが、少人数で取り組む離島の野球少年、指導者の辛抱強い戦いは、野球の原点であるチームの輪、努力、忍耐力を改めて認識させてくれる。マネーや通信、機器に左右される時代にあって、人間の力を最大限に発揮する野球は、美しいドラマである。(続)