「記録の交差点」(22)-(山田 收=報知)

第22回 宮西尚生④
宮西の憧れ、岩瀬仁紀のデビュー戦は散々だった。ルーキーだった1999年4月2日、広島との開幕戦(ナゴヤドーム)。1点リードの6回2死二塁で登板。前田智徳、江藤智、金本知憲の強力トリオに3連打を浴び、1死も取れず12球でKOされた。
結局、チームが逆転勝ちして、岩瀬は敗戦投手にはならなかったが、試合後、星野仙一監督は「オレのミスをよう取り返してくれた」と話したそうだ。岩瀬自身は「ボクを使ったことを監督にミスと言わせてしまった、というのが投手としての原点」と振り返る。
通算407セーブの大記録を打ち立てた鉄人のスタートは、悔しさに満ちたものだった。
その星野、続く山田久志監督が指揮を執った99年から2003年までは中継ぎ専任。立場が変わったのは、04年に就任した落合博満監督によってだった。
話が前後するが、岩瀬が唯一先発した試合がある。2年目の最終登板となった2000年10月8日の広島戦(広島)。7回を投げ被安打7、6奪三振、失点1(自責0)で、2年連続10勝を挙げている。
従って1002試合登板で1001試合が救援登板だが、連続ではプロ最多の879。宮西が869でこれを追う。2025年も開幕1軍スタートのようなので、大きな故障さえなければ、最初
の❝岩瀬超え❞は確実なところだ。
さて04年からスタートした岩瀬のクローザー人生。「落合さんは『岩瀬を出すまでが、オレたちの仕事』と、言ってくれたことが胸に響いた」その信頼への答えが前人未到の大記録につながったと言える。これはファンの間では有名な話だが、岩瀬は体質的に酒を受け付けない。それがクローザーに向いている、と首脳陣に判断されたという。
ここからは岩瀬とセーブの物語をながめてみる。記念すべき初Sは04年4月2日。これまた開幕の広島戦(ナゴヤドーム)。1イニング6打者に3安打を打たれ1失点したが、初の“S”マークが付いた。以降708試合で402Sを記録する。通算セーブの2位は高津臣吾の286(日米通算313)、3位は佐々木主浩252(同381)と大差をつけている。
大魔神・佐々木やシーズン最多記録54Sを持つサファテに代表されるように短期間での爆発力を感じさせるクローザーが多い中、岩瀬には静かな永続性という修飾がハマる。例えば佐々木は1997年8月に月間14Sを記録している。対して岩瀬は月間10Sを05年8月、09年7月、11年9月、12年4月と4度もマークしている。月間2ケタSを4度は、岩瀬だけである。
連続セーブのプロ野球記録は横浜が優勝した98年、佐々木の22だが、岩瀬もそれに続く20(09年)と踏ん張っている(2位タイに栗林良吏も)。
シーズン最多セーブ投手を05、06、09、10、12年の5度受賞(1位は江夏豊の6度)している岩瀬だが、最優秀中継ぎ投手も3度(99、00、03年)受賞(山口哲也、宮西が並ぶ)。中継ぎ王から抑えのキングへ。まさに、最強のリリーフ投手といえる。(了)=記録は2024年シーズン終了時点=(続)