「100年の道のり」(90)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

◎スライダーの元祖、初の完全試合を達成
 1950年(昭和25年)、プロ野球はセ・パ2リーグ制となり、新たなスタートを切った。セ8球団、パ8球団という変則だったけれども、戦後の暗さを吹き飛ばすように全国のファンは大歓迎した。
 これを祝福するような快記録が達成している。巨人の藤本英雄が初めてのパーフェクトゲームを成し遂げたのである。6月28日、青森市営球場での西日本10回戦だった。スコア4-0。1回表、先頭の平井三郎にボール3となったものの三振に切って取り、快調に投げ続けた。変化球を多投、凡打に打ち取っていった。9回に代打で登場した監督の小島利男を三振に仕留め史上初の快挙となった。
試合開始は4時17分で終了は5時33分。1時間16分、92球で仕上げた。
 西日本の平井と4番の南村不可止は翌年、巨人に移籍して藤本と同僚となり、そろって51年からの第2期黄金時代を支えた。
 このとき、巨人は東北と北海道に遠征。一ノ関、函館、小樽、札幌を経て青森にやってきた。実は、先発予定だった多田文久三が腹痛を起こし、その代役として藤本が投げた。藤本は登板予定がないと思い、青函連絡船で渡るとき、徹夜で麻雀をしており、寝る時間もなく先発して大記録を達成した。
 ところが球史に残る試合の写真はない。新聞記者も北海道での試合が終わると帰ってしまったという。
 藤本は球史に残る本格派右腕だった。下関商時代はエースで4番打者として甲子園の選抜大会に2度出場。明大では通算34勝9敗。42年春季はノーヒットノーランを含む9勝1敗で優勝に貢献。この年の9月、文部省のお達しで繰り上げ卒業となり、その9月に巨人入りして10勝無敗。翌年は34勝、勝率7割5分6厘、防御率0.73、19完封、253三振と5冠を手にした。
 その後、肩を痛めたことからスライダーを身につけた。完全試合はそれを主にシュートボールと投げ分けた。そこから“スライダーの元祖”と呼ばれた。今ではほとんどの投手がなげる横にすべる投球は藤本からはじまった。
 打撃もよく、映画会社が野球映画のPRで「二死満塁で本塁打を打ったら賞金1万円」としたところ、藤本がかっ飛ばして大枚を手にしたエピソードがある。シーズン7本塁打は大谷翔平に破られるまでの投手記録だった。シーズン19完封(通算200勝)は“不滅の記録”である。76年に殿堂入り。(続)

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