「ONの尽瘁(じんすい)」(長嶋茂雄さん追悼篇)―(玉置 肇=日刊スポーツ)
梅雨の走りを思わせる6月の雨の朝、長嶋茂雄さんが逝(い)った。私はこのコラムでONの巨人監督時代の「苦労話」を、今は王貞治さんのそれを、書かせてもらっている。現役時代の業績はテレビや雑誌で知るだけ。1985(昭60)年から巨人番記者となり足かけ5年、2人の監督時を取材した私にしてそうなのだから、67年間コンビを続けた王さんにとって、「分身」をなくした喪失感は想像を超えるものがあるだろう。これまでの王さんへの取材を通して、ONの歩んだ時代に思いをはせる。
「別れ」は、出会いから2万4383日目の朝、突然やって来た。王さんは訃報を聞き、長嶋さんの自宅へ弔問に訪れた。現役選手だったころ、東京都内の2人の住居は、直線距離にして約3㌔。同じ私鉄沿線の瀟洒(しょうしゃ)な住宅街に位置し、最寄り駅でも2駅しか離れていなかった。だけど、今、その距離は、球界でともに過ごした長い歳月でも測れないほど、遥けき空の、そのまた彼方にまで遠ざかってしまった。
運命的なONの初対面は、58年9月1日にさかのぼる。当時、王さんは18歳の早実3年生。巨人入りを決め、あいさつのため、広島遠征に向かうナインを東京駅のホームまで見送りに来ていた。
午後7時発の長崎行き寝台特急「さちかぜ」を待つナインに交じって、王さんは22歳の長嶋さんから激励され、感激したという。大きな目をクリクリさせながら、長嶋さんを笑顔で見つめる王さんの写真が、残っている。以来、2人が巨人という同じ「屋根」の下でともにプレーした年月は16シーズン、監督と選手の関係でさらに6シーズンに上る。通算22年間、巨人を象徴する存在であり続けた。
では、2人は、ライバルだったのか?
長嶋さんは生前のインタビューで、こう話している。「ワンちゃんも、ボクも、お互いをライバルと思ってはいなかった。ライバルというより、一緒にやる仲間で、盟友だった」。
一方の王さんは言う。「長嶋さんに存在感では全然かないませんから。バットで存在感を示すしかありませんでした。ホームランをとにかく追っかけた。数字でしか、争えませんでした」。さらに、先ごろ(6月8日)営まれた告別式で弔辞を述べ、感謝の言葉をつづった。「長嶋さんには頭が上がりませんでした。足を向けて寝られない人でした。そんな大恩人の長嶋さんとのこんなお別れは、到底受け入れられません。(中略)あなたとの六十有余年、私にとっては忘れることのできない貴重な年月でした」。
2人の言葉から察するに、ライバル意識などみじんも感じられない。王さんの入団時、投手か野手かでチームの方針が真っ二つに割れたとき、「ウィークポイントが少ない」と野手を勧めたのも長嶋さん。元より、努力型のホームランバッターと感覚型のクラッチヒッターに、個性も、打撃スタイルも、すみ分けされていた。
一方が打てば、刺激しあうように他方も打つ。他方が不調なら、一方が力を補完する。「ミスター」と呼ばれた男が、情熱的なプレーでチームにエネルギーを産生すれば、「ビッグ1(ワン)」と称された男は、自己に冷徹なまでの鍛錬で得られる果実をナインに伝えた。それは、2つの物体が互いに力を及ぼすとき、力の向きは反対で、大きさは等しいという「作用反作用」の関係に似ている。
互いに「熱量」と「冷気」を及ぼしあう、その関係こそ巨人の強さそのものだった。68年9月18日の阪神戦。頭部に死球を受け病院に搬送された王さんに対し、「ワンちゃんの恨みはオレが晴らす」とばかり、長嶋さんは3ランホームランを放った。
王さんの2度(73、74年)の3冠王にも、「相棒」は関与した。王さんにはそれまで3冠のチャンスが5度もあったのだが、ことごとく長嶋さんに「阻止」されていた。まあ、でも、目くじらを立てることはない。2人で独占したタイトルの数々はそのまま巨人のV9を彩ったわけだから。
長嶋さんは監督就任時、ONの「再現」に固執した。第1次政権時の76年、コンビが解消されると、王さんは急に打てなくなった。むろん、現役終盤の年齢による力の衰えもあったろう。長嶋さんはそこで、王さんへの「活性剤」としてタイプの異なる、広角打法の張本勲を日本ハムから獲得。新コンビ「OH」を組ませた。狙いは的中。王さんは、49本塁打(前年33本塁打)、123打点(同96打点)、打率.325(同.285)と、前年奪われたホームランキング奪回を含む2冠に輝くなど、復調に成功。同時に長嶋巨人の優勝に貢献した。
第2次政権の94(平6)年も、そう。ドラフト1位で獲得した松井秀喜を4番に据えるため「1000日計画」の一環として、長嶋さん自身が「毒の注入」と命名するほどのリスク覚悟で中日から落合博満を迎え入れた。落合が抜けた97年以降、西武から清原和博を獲得。松井との「MK」コンビで競わせた。
王さんには、巨人監督3シーズン目を迎えた86年頃、長嶋さんをちょっぴり〝意識〟する時期があった。記者との雑談で、「グルメ」の話になった。王さんは現役時代を懐かしむように言った。「昔の選手はみんな、よく食べたもんだよ。ミスターも、オレも、よく食べた。好みは違うけどね」。
長嶋さんがドレスコードの厳しそうなレストランがお気に入りだったのに対し、「ラーメン店のせがれ」を自任する王さんの行きつけは大衆店が多かったことを引き合いに、こんな言い方で自身と長嶋さんを比較した。
「ミスターが入りにくい店でも、オレはどこでも気軽に入っていける。ミスターはやっぱり大変だよ」。そう言うと、天ざるのそばを、勢いよくすすっていた。
王さんは監督として、リーグ制覇でも、日本一の達成でも、ことごとく長嶋さんに先を越された。長嶋さんの巨人での初優勝は第1次政権2年目。一方の王さんは4年目。初の日本一は長嶋さんの第2次政権2年目(通算8年目)に対し、王さんは巨人ではそこに至らず、ダイエー(現ソフトバンク)に移って5年目(通算10年目)だった。口さがない〝外野席〟から「どっちが名監督?」と比較されがちだったが、当の本人にわずらわしさはなかったのか?
王さんは、その質問を、一笑に付した。「それは、君らマスコミが騒ぐことであって、われわれは、目の前の試合を戦うだけだからね。ミスターはミスター。オレはオレだよ」。
その傍ら「ミスターVSオレ」を、露骨に示したことが1度あった。92年9月頃。私が当時所属していた「日刊スポーツ」が、長嶋さんの13年ぶりの「巨人監督復帰」をスクープした。
私はデスクから、王さんを取材するよう言われた。選手時はONで存立できても、巨人監督となると、共存できない。当時2人はともにフリーの身で、どちらに声がかかっても不思議じゃなかった。また長嶋さんに先を越されるのか?王さんにその心境を聞いてこい、というわけだ。
「そんなこと、聞きに来るな!」と怒鳴られ、門前払いを覚悟した。自宅を訪ね、恐る恐る聞いた。取材拒否こそ免れたが、案の定、ふだんより荒い声が返ってきた。
「キミんとこの新聞では、(次期監督は)ミスターだって?でも、オレも(巨人監督の)候補だと聞いてる。わからないよ。動きが出るのは、これからじゃないかな」。これほど自己主張する王さんは初めてだった。監督人事に関して、みずからも候補になっている情報も明かした。それだけ「2度目」の巨人監督就任は、王さんにとって(恐らく長嶋さんにとっても)「最重要マター」だったということだろう。
このときの監督報道は、長嶋さんで決着した。でも、その2年後の94年オフ、王さんにチャンスが巡る。ダイエー(現ソフトバンク)監督へのオファーが届いたのだ。ただ、越えるべき「ハードル」があった。巨人出身者が他球団のユニホームを着れば、それは巨人との決別を意味するー。王さんが覚悟の上、巨人以外のユニホームを着るかどうか?世間の関心はその一点に注がれた。
長嶋さんはこのとき、ボソッと言ったものだ。
「ワンちゃんも、監督、やればいいんだよ。巨人じゃなくても、やればいいんだ」
その物言いは、同僚の身を案じるとともに指揮官としてのON共存を願う気持ちの表われだった。
かくして、巨人以外のチームの監督に就いた王さんは、長嶋さんの十八番でもある「作用反作用」を駆使した。当時Bクラスに慣れて甘えの残るホークスの体質改善に、「逆向き」の力を行使しうる存在として常勝集団・西武から移籍して来た秋山幸二と工藤公康に力を借りた。ナインの意識改革が成った99年、王さんはリーグ制覇、さらに念願だった初の日本一をも手中に収めた。
翌2000年には史上初の「ON日本シリーズ」が実現した。それは、「10・8最終決戦」(94年)、「メークドラマ」(96年)と続く、「監督長嶋」の集大成になったし、王さんには、さらに8年続く「長期政権」の礎石となった。
ONのいる光景―。それを見慣れてしまった私たちと、就中、一方の当事者である王さんの目に、「長嶋茂雄」のいない今後の球界は、どう映るのだろう?
たとえ、それが、寂しいものであっても、私たちは、決して、忘れない。野球が、腹の底から笑えて、思いっきり泣けて、胸のつかえが募ったと思えばすぐスカッとできて、いろんなことを教えてくれて、いろんな場所で話題になって、何より、生活に憩いを、人生に活力を与えてくれることを。野球を、もっともっと、楽しみ続けよう。次代の「ON」の出現を信じ、その瞬間を心待ちにしながら。(了)