「いつか来た記者道」(87)-(露久保 孝一=産経)

◎満州のエースが残した最年長48歳の栄光
 2025年に昭和100年を迎えた歴史を振り返り、この欄で野球界の激動やうねりを何度か取りあげている。時代の変化なかで、地政学的には消えてしまった野球地図がある。「満州のチームが都市対抗で何度も優勝した」というのは、その一例である。
 1927(昭和2)年から始まった社会人の都市対抗野球は、当時は日本が統治していた中国大陸の東北部の満州に強いチームが多かった。そのなかで、南満州鉄道(満鉄)の系列「満倶(大連満州倶楽部)」はエースの浜崎真二を擁して29年に優勝した。同じ大連に、大連実業団(実業)という強豪チームがあり、満倶と実業が交互に優勝して「大連市」が3連覇した。大連の選手たちは、内地(日本本土)の連中から満州のいなか者といわれ負けたくなくて猛練習した、という気持ちが野球情熱を高めたようだ。
 満州の野球で、ひときわ注目されたのは、身長160センチに満たない「速球の大投手」浜崎だった。この頃はまだプロ野球リーグはなく、満鉄は人気の東京六大学の有力選手をこぞって入社させた。浜崎は慶大で、快速球と豪打の両刀使いで活躍し、29年満鉄に入社するとすぐに満倶を優勝に導いた。
 浜崎は、神戸新聞によれば、広島商業高を受験する際にグランドに現れ投打を披露した。「154㎝・52㎏の小兵が、捕手を目がけて左腕から快速球を投げ込み、打者となると打球を軽々と場外へ運ぶ。ナインは目を見張った」という凄さだった。広島商で野球をしたが中退し、神戸商に入学してエースとして甲子園大会で活躍した。23年慶大に進学しすぐ主力選手になる。27年、浜崎が早大を2試合連続完封して慶応黄金時代の足掛かりを作った。満鉄に入社後は野球に情熱を傾け軍隊生活も経験し、47(昭和22)年に満州から引き揚げた。
▽45歳でプロ入り浜崎真二、球界彦左の名
 同年、阪急に投手兼監督として45歳で入団、いまでも日本プロ野球の最年長入団の記録を保持している。50年に東急戦で2番手として登板し勝ち投手となった。48歳10か月での勝利投手は、2012年(平成24)年、中日の山本昌投手が49歳0か月で記録するまで、64年間破られなかった。しかし安打、三塁打、打点などのプロ野球最年長記録はまだ浜崎が75年間維持している。
 浜崎は国鉄(現ヤクルト)監督を経験し、野球評論家になってからは、単刀直入の物言いから「球界のご意見番」「球界彦左」と言われた。1978年に野球殿堂りした。満州のエース、48歳の最年長打撃の伝説をもつ「球界彦左衛門」は、遠い彼方の出来事のようではあるが、野球界の記憶の遺産として輝いているのである。(続)