「100年の道のり」(92)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)
◎ホームラン熱から覚めた赤バット
ラビットボール時代を迎える前年の1948年(昭和23年)のシーズン、巨人の川上哲治は25本塁打を放ち同僚の青田昇とホームラン王のタイトルを分け合った。けれども3割を切った打率2割9分8厘(504打数150安打)に納得できなかった。3割にあと2安打足りなかったことにずっとこだわった。
飛ぶボール採用となった2シーズンの本塁打は49年から24本、29本とマークしたものの、阪神の藤村冨美男(49年46本)松竹の小鶴誠(50年51本)毎日の別当薫(50年43本)らとは比較にならない数字だった。ホームラン狂騒曲からは取り残されていた。長打か安打か、バットマンとしての行く末に悩んでいたころである。
30歳になった50年オフ、ヤンキースのジョー・ディマジオが来日し、対談の席でこんなやり取りがあった。
「どういう心構えで打席に立っているのか」
「ホームランを狙うとか考えていない。常に2塁打を打つつもりで打席に入る」
この答えで川上は生きる道を決めた。ホームラン熱から完全に冷めた瞬間である。ディマジオのレベルスイング、打つとき顔が動かないなどを参考にした。
このころの三十路になると「ベテラン」と呼ばれ、現役引退が迫る年齢だった。ところが川上はそこから全盛を築くのである。51年に3割7分7厘という驚異的な打率で戦後及び2リーグになって初めて首位打者を獲得。さらに53年、55年にもタイトルを手にした。
51年は424打席で三振6という確実さだったし、56年にはプロ野球初の2000安打を達成した。本塁打は51年15本、55年12本であとは一ケタだった。
かつて弾丸ライナーをかっ飛ばし、その打力は”赤バットの川上“の異名を持ち、球界ナンバー1の座に君臨していた打撃人の岐路は、ホームランの魅力に別れを告げたときだった。そして“打撃の神様”と呼ばれ、生涯のニックネームとして語り伝えられている。
ラビットボール時代は2年で終わった。51年からのホームラン王は20本台から30本台が多く、セは22本(57年の大洋・青田昇と国鉄・佐藤孝夫、60年の阪神・藤本勝巳)、パは23本(58年の西鉄・中西太)でタイトルということもあった。40本台になったのは62年にパの野村克也(南海、44本)、セが翌63年の王貞治(巨人、40本)だった。
己の力量を自覚した川上の生き様は正解だった。加えて51年オフ、米国のモデストキャンプ参加メンバーに選ばれた。藤村冨美男、小鶴誠、中日の杉下茂の4人で、付き添いは松竹監督だった小西得郎。川上はここで米国の野球を知り、のちに「監督になったときに役立った」と後年語っている。フォークボールを投げて打たれなかったことから自信を深め、間もなく“魔球フォーク”を駆使して一時代を築いたのが杉下だった。(続)
