「ONの尽瘁(じんすい)」(26)―(玉置 肇=日刊スポーツ)

75勝を挙げながら「3厘差」で優勝を逃した1986(昭61)年、王巨人は激動のオフに見舞われた。監督・王貞治の「進退伺い」は読売サイドに受理されなかったが、就任4季目となる来季の覇権奪回は不可避となり、それに向けた戦力補強が求められた。それが、ロッテの主砲・落合博満のトレード獲得だった。
落合は同年、2年連続の三冠王に輝いた。既にパ・リーグを代表するスラッガーとして君臨していたとはいえ、ロッテが稲尾和久監督を突如解任したことで、稲尾を恩師と慕う落合の去就は風雲急を告げる。
3度目の三冠王を祝福する「落合選手を励ます会」が同年11月4日福岡で行われ、あいさつに立った主賓の男は言い切った。
「稲尾さんがいないなら、ロッテにいる必要はない。来年、どのチームにいるか、わからない」。事実上のトレード宣言だった。ロッテとしても間近に迫る更改交渉で「1億円超」が必至となった高額年俸がネックとなり、もはや放出は決定的といえた。
早速動いたのが、王巨人だった。シーズン終盤に主砲原辰徳が左有鉤(ゆうこう)骨骨折の重傷を負い、開幕に間に合うか危ぶまれた。それでなくても常時4番を張るには好不調の波が激しく、クロマティらにその座を譲ることも珍しくはなかった。
投手の調整や育成は「門外漢」でも、みずからも含めて球団史に連綿と築かれてきた「巨人の4番」確保は、続投となった王の最大責務の1つにほかならなかった。原がその抜てきに耐えられるか微妙だったからこそ、落合に優勝というパズルへの最後のピースを求めたかったのは本音だろう。
稲尾が落合の「トレード宣言」に当たって、ある事実を「暴露」した。「去年(85年)オフ、巨人から『落合トレード』の話があった。条件が折り合わずまとまらなかった」。つまり、巨人は2年越しで次期4番を獲りにいったわけだ。しかし、この段階で王の真意を汲み、人脈と情報を駆使してその獲得に動く主たる人材が球団には手薄だった。何より球団は王の出馬に慎重だった。乗り出したはいいが、獲得に失敗したときの「世界の王」の体面を危惧したのだ。そんな球団の雰囲気を察知してか、選手の反応も鈍かった。もし落合が来たら4番とサードを奪われる立場にあった原辰徳は「一緒にプレーできればいいけど、今は自分のケガを早く治すことだけ」と関心なしを決め込んだ。
落合のトレード話は進展せず、膠着状態が続いた。
最大の問題は交換要員だった。3度の三冠王に輝くパの看板打者を獲得するのに、巨人には相当の「出血」が求められた。核となったのは篠塚、西本、角の「1対3」トレード。だが、ロッテが若手投手陣を欲し、難航した。稲尾に代わってロッテ監督に就く有藤道世などは「江川、槙原、桑田の3人でどうか?野手で落合に匹敵するのはバース(阪神)くらいしかいない」と、言いたい放題でうそぶいたものだった。
元より、前年の落合獲得構想でも巨人は中畑、西本、水野ら交換要員以上に、当時の年俸交渉で「天井」だった1億円台を遥かに超える3億円を用意したともいわれる。人を変え、金を積み増し、その獲得に拘泥しながらも2年越しの交渉は進まなかった。
そんなタイミングで、この「世紀のトレード」に参入してきた男がいた。中日監督・星野仙一だ。「オチ(落合)を巨人に獲られたら、10年は優勝できん!」と球団にハッパをかけると同時に自身も果敢に動いた。この期に及んでも王は泰然と言い放った。「落合は、逃げない」。
球団は、新たに打撃コーチに迎えた山内一弘が落合と良好な関係にあったことも好材料と見ていた。さかのぼって78年ドラフト。落合はロッテの3位指名でプロ入りしたが、巨人が「江川問題」でボイコットしていなければ2位指名だったという浅からぬ「縁」にすがろうとした向きもあったかもしれない。
本気度が希薄な巨人とは裏腹に、中日の動きは激アツだった。交換要員でも糸目をつけず、リリーフエースの座を射止めつつあった牛島和彦に加え、平沼定晴、桑田茂の若手3投手に内野手の上川誠二を加えた「1対4」のトレードを提案。投手力不足に悩むロッテが応じる形で、落合の中日移籍が決まった。12月23日午後10時すぎ両球団からトレード成立が発表され、王巨人はペナントレースに続いて落合獲得でもまさかの敗北を喫し、「巨人落合」の誕生にさらに7年の年月を要した。
86年の約2カ月に及ぶ落合移籍騒動。落合自身は「49日間?それだけ(新聞の)1面を張ったわけだからマスコミにはえらく喜ばれたよ」と、騒動を楽しむ風だった。