「評伝」-デーブ・ジョンソン-(菅谷 齊=共同通信)
◎日米のルース記録更新を目撃、歴史の証言者デーブ・ジョンソン
この9月5日(日本時間6日)に82歳で亡くなったデーブ・ジョンソンはジェントルマンという表現がぴったりとする野球人だった。巨人を退団してフィリーズに入団して2年目の1978年8月、オハイオ州シンシナチのリバーフロント・スタジアムで久しぶりに会った。
当時の大リーグはピート・ローズ(レッズ)の連続試合安打で盛り上がっていた。スイッチヒッターの安打製造機が不滅の56試合連続の記録(ジョー・ディマジオ)に挑んでいたからである。ジョンソンは一員として遠征に来ており、本職の二塁を守っており、相変わらず堅実なプレーを見せていた。背が高く、左胸に「P」とあった縦じまのユニホームが実に格好良かった。亡くなったのを知ってグラウンドで撮った記念の写真を久しぶりに見た。
ジョンソンはオリオールズ時代、不動の二塁手として球界を代表する内野手で、70年代の黄金時代の主軸でもあった。ジョンソン名の多い大リーグにあって、彼は「ジョンソンの中のジョンソン」と言われたほど知名度が高かった。
ブレーブスに移籍した1973年に43本塁打をマーク。翌74年、同僚のハンク・アーロンが4月8日にベーブ・ルースの大リーグ通算本塁打714の記録を破る一打を目の前で見た。75年のシーズン中に長島茂雄監督の巨人に入団。2年目の10月11日の阪神戦に王貞治がルースの記録を抜く715号を放ったのを見ている。不滅と言われたルースの本塁打を更新する日米の一撃を目撃した唯一の選手で、日米球界の“歴史の証言者”なのである。
オリオールズ時代の71年、日米野球で来日。スター選手ぞろいだった。投手陣はジム・パーマーを軸とする20勝カルテット、打者はナ・ア両リーグMVPのフランク・ロビンソン、当代一の三塁手だったブルックス・ロビンソン、太平洋に入ったドン・ビュフォードらである。
ジョンソンは84年にメッツ監督としてワールドチャンピオンに導いた。「コンピューター野球」を駆使し話題になった。巨人がドジャースのベロビーチでキャンプを張ったとき、オープン戦のロッカーに手作りの日本食の差し入れを奥方と運んで来た。(了)
