第4回「大阪球場」(2)完

◎涙の御堂筋パレード

▽亡き妻の位牌を懐に

宿敵・巨人を破っての日本一に浪花の街は歓喜に沸いた。優勝から2日後の10月31日、秋晴れの土曜日だった。今も語り継がれる「涙の御堂筋パレード」である。
 大阪球場を出発する前、ユニホームに着替えようとしていた鶴岡のもとへ一子夫人が訪ねてきた。手にした位牌を夫に差し出す。
 「お父さん、パレードを見せてあげてください」
 病気で先立った先妻、文子さんの位牌だった。勝負師は家庭を省みる間もない。妻の苦労を知る一子夫人ならではの気遣いだった。
 ロッカーが鶴岡のすぐ近くだった岡本は監督が位牌を懐に忍ばすのを見た。「一緒に行きはるんですか」と声を掛けると、鶴岡はあの独特のダミ声で「オウ」と唸った。
 大阪中から借り集めた11台のオープンカーは大阪球場からスタートした。1号車に鶴岡と南海電鉄の壷田修社長、橘真琴球団社長が、2号車には杉浦、野村のバッテリーとパ・リーグの中沢不二雄会長が乗り込んだ。

▽祝った人出は20万人

万感の思いで見送った男がいた。大阪ボーイズリーグの原田常治専務理事だ。大阪球場の建設に尽力したGHQ経済科学局長マーカット少将の副官キャピー原田中尉の弟である。常治は50年9月、大阪スタヂアムが完成すると同時に入社した。
 「鶴岡さんの苦悩を知っていますからね。あのパレードはうれしかったなあ」
 涙で曇ったパレードの熱狂はいつまでも瞼に鮮明だった。パレードから“救出”された人もいる。大之木建設営業課長を勤めた鶴岡の次女、香だ。
 「出発して間もなく車酔いになりましてね。降ろされたそうです」
当時,6歳でこちらは記憶にない。
 車列は日本橋から内本町を通って北へ進み、大阪駅前を経て曽根崎警察署前で折り返した。ここから南下して肥後橋、大江橋を渡り大阪市役所前から御堂筋を南に下った。車列を人垣が覆った。紙吹雪が舞いテープが飛んだ。パレードを祝った人出は20万人(大阪府警調べ)だった。当初,大阪府警は凱旋パレードに難色を示した。が、伝聞によると警備を担当する各警察署の署員が署長を突き上げて実現したという。

▽総合商業施設に姿を変えた鷹軍団の居城

あれから時が移ろいで、「昭和の大阪城」と形容された鷹軍団の居城は、今はない。一時、住宅展示場として使用されていた。南海の球団部長などを務めた梶田睦によると、通りかかった鶴岡は「見るに耐えない」と嘆いたと言う。
 2003年10月には総合商業施設「なんばパークス」に生まれ変わった。
 岡本はあの球場が大好きだった。
 「スタンドが絶壁みたいに急角度でね。観客の顔が間近に見えた。外野席には浴衣がけのファンが夕涼みに来ていたりしてね、温もりがあったなあ」
 なんばパークス2階のキャニオンストリートには、御影石のピッチャースプレート跡にホームベースを埋め込んだモニュメントがある。バッテリー間の距離は18㍍44の実寸大。ホームベースを垂直に1階まで下ろすとそこが大阪球場のマウンドの位置だとか。
 私も大阪勤務時代はこの球場によく通ったが、時代が景色を塗り替えてしまって、かつての風景はまったく思い浮かばなかった。(了)

「メモ」正式名称は大阪スタジアム。通称ナンバ球場。大阪市中央区難波。1950年~98年。両翼91.5m、中堅115.8m、3万1379人収容。51年にナイター設備を設置◆48年、戦後第3回の日本職業野球リーグで優勝した際、ホームグラウンドがないことを知ったGHQのマーカット少将が本拠球場の建設を提案、スタンドの下にテナントを入れたのは日本で初めて◆南海のほか近鉄も57年まで本拠として使用。ほかにも53、4年洋松ロビンスが本拠とし、56年に阪神が甲子園球場にナイター設備の設置するまで準本拠地とした◆79、80年に近鉄が日本シリーズに出場した際、観客収容人数の関係でこの球場を使用、79年の広島との対戦で有名な「江夏の21球」の舞台◆球場跡に建設された「なんばパークス」にはモニュメントや南海ホークスメモリアルギャラリーがあり、8階の屋外イベントスペースの「円形劇場」の客席は大阪球場の外野席の形状そのままに作られている。(了)