第5回「川上哲治の素顔」

▽川上邸座敷の白木の柱

川上監督は正力松太郎の「巨人はアメリカ野球に追いつけ、紳士たれ、美しくあれ」を忠実に愚直に具現できたことが納得できたような気分になった。
 ここでちょっと脇道にそれると、その石の置物の他に、床の間の白木の柱に目がいった。というのは巨人を担当する前のヤクルト担当のとき別所監督から聞いた話がある。別所さんはこう言った。
 「川さんはマージャンが強くてね。いや、強いというより自分が勝つまでやめてくれなかったから、オレなんかいくら負けたかわからんよ。勝った金で床の間に立派な白木の太い柱を作ったらしい。オレからふんだくった金で、だぜ。部屋に入る機会があったら、ぜひ拝んでくれよ、ワッハッハ」
 確かに太い白木の柱がでーんと立っていた。よほど別所さんから聞いた話をしようかなと思ったが、なにしろ「偉い監督」で「怖い監督」と新聞紙上で読んでいるから、新参者はビビッている。そんなことをいえるわけがない。ただただ「プロ野球の選手は金持ちだからマージャンのレートはさぞ高いのだろうなあ」と感じ入って見つめたことだった。
 石の「グラブ」と「べーやんの白木の柱」が川上邸座敷の、私の原風景である。

▽猛スピードで走った川上街道

監督になって、まず最初に行ったのが川上野球の「頭の体操」の「ミーティング」と、「体の体操」というべき「猛練習」だった。これが川上野球の二大柱である。
 東京都と神奈川県を隔てる川が多摩川である。その川に架かる橋の1つに丸子橋があって、その橋を通過する道が中原街道である。その街道を、61年ごろ毎日のように時速100㌔以上のスピードで神奈川県方面へぶっ飛ぶ外車があった。
先輩記者によれば「川さんが多摩川グラウンドへ車をぶっ飛ばせていたよ。運転しながら、どけ! どけ! と叫んでいたらしいよ。沿道の人はびっくりするし、車で走っている人には迷惑千万よ。いまならたちまちパトカーにつかまって赤切符だけど、当時は車が少なかったし、飛ばしているのが絶大な人気球団の川上監督だとわかって、誰も文句を言えなかったようだった。
だから中原街道は、人呼んで川上街道!」
 巨人の多摩川練習場のグラウンドは、丸子橋の手前を右折した多摩川べりにある。そこへ一刻も早く着きたくてスピードが出ちゃったらしかった。車の量が少なかったから、さぞ目立っただろうと思われるが、練習は、試合のある日はピックアップした選手が正午からか1時から2時間ほど練習してから後楽園球場へ駆けつける。
その後楽園ではそれ以外の主力が2時くらいから練習しているのだから、そっちも見なくては、と猛スピードの移動が必要だったのだろう。

▽英語になった猛練習の「トックン」

試合のない日は、午前10時くらいから4時間か5時間、みっちりと練習するのだ。当時の担当記者・西日本新聞の内田先輩から聞いた話。「猛練習がいっぺんに有名になったのが61年の日本シリーズのとき。雨で試合が中止になったんだ。室内練習場なんかないから、それまではそういうときはどこかの小学校か中学校の体育館を借りてランニングするくらいだったのに、なんと、多摩川グラウンド集合しろ! だもんね。土砂降りなんだよ。白石さん(ヘッドコーチ)なんか目を白黒させていたけど川さんは、合羽を着てやれ、ボールは炭火で乾かせ、手拭いで拭け、石灰でまぶせ、だぜ。びっくりどころか度肝を抜かれたというかあきれたよ」
 のちに川上は「もちろん練習そのものも大事だが、精神力を鍛えるためにやったのじゃよ」と笑っていたが、不振に陥ったりフォームを崩したりした選手には「特別訓練」が科せられた。いわゆる「トックン」である。
 「トックンは普段の練習の他に川さんが必要と見た選手だけにやらせた特別訓練。川さんがマンツーマンで、ご自分の打撃理論であるダウンスイングの素振りをさせるんだ。もちろん誰かに投げさせて打たせることもあるが、素振りが中心。素振りなら選手が自宅でだってやれるのだし、町田や福田という若いコーチがいるのだから任せてもいいと思うが、川さんは目の前で自分が見ないと気が済まないのか、もっと縦に振れとか、肩の力を抜いて、などといながら付きっきりでやらせる。凄いなんてものじゃなかったよ」
 この「トックン」は野球の先進国アメリカ特派員の目によほど奇異に映ったのか、AP通信が「TOKKUN」と書いて、「日本のプロ野球の神風的練習」と紹介されたと聞いた。神風というのは、当時、猛スピードで道路を突っ走るタクシーを「神風タクシー」といわれたものの転用で、太平洋戦争中の日本の高速戦闘機の名前である。(了)