第1回 野茂英雄

▽野茂vs報道陣、けんか腰だった会見デー

第1回はどうしても野茂英雄だ。私自身、プロ野球記録担当でありながらメジャーの成績を付けていたこともあって、1995年3月、自身初の海外出張としてベロビーチ・キャンプ取材を仰せつかった。

そこで見た野茂は、毎朝、だれも姿を見せていないグラウンドでのランニングが日課だった。当時の野茂番記者は、私を含めて日本球界(近鉄)と揉めて海を渡った男を取材するという意識が強く、キャンプ中の4日に一度と設定された会見デーはいつもけんか腰。険悪な雰囲気が連日漂っていた思い出がある。

彼はそんな周囲の雑音にまどわされずにオープン戦で着実に結果を残してマイナー契約から、メジャー契約を勝ち取った。

開幕を迎える前に、会社から帰還命令が出て帰国。日本で待っていたのは、登板日全試合のスコアをつけ、現地で契約した通信員から送られてくるコメントなどをもらって原稿をまとめるアンカー。95年の全登板をつけたスコアカードも今ではお宝だ。

▽大ヒーローになっていた取材での再会

8月に再び取材に出向いたときの野茂は、オールスター戦の先発も果たして、日本球界の大ヒーローになっていた。滞在はわずか3週間で4度の登板だけの取材だったが、10日、ドジャー・スタジアムでの試合は忘れられない。前日までは野茂観戦ツアー客と一緒のマイクロバスだったのを変え、初めてタクシーを利用した。片言の英語が運転手に上手く伝わらず、降ろされたのは関係者入り口ではなく外野席の入場口付近だった。

そこで時間をつぶしていたとき、同じように開門を待っていたのがメキシコ人親子。拙い英語で話しかけてみると、その父親は「私が少年時代、父が(80年にデビューして旋風を巻き起こしたドジャース投手の)バレンズエラを見せてくれた。だから、自分も、異国から来たヒーローのノモを子供たちに見せたいんだ」と言う。

カージナルス戦で野茂が勝てば、そのコメントを雑感の頭に使おうと思っていた。ところが試合は1-2で負けただけでなく、当日ファン全員に配られたボールが審判団の判定を不服としてグラウンドに投げ込まれ、審判団はまさかの没収試合(その後メジャーでは起きていない)となった。

試合後は野茂の原稿だけでなく、11年後にWBCで話題となるデービッドソン責任審判らが控える審判控室に行くなど、どたばたの1日だった。

結局、私が見た4登板で野茂は1勝3敗だった。ただ、フィラデルフィアで帰国の挨拶に行き「今日で帰国しますが、地区優勝目指して頑張ってください」と話すと「取材お疲れさまでした。ありがとうございました」と笑顔を返してくれた。

▽大リーグ殿堂入りの得票に期待

その後、メジャーデスクとしてノーヒットノーラン2度、日米200勝、現役引退など彼に振り回されることは少なくなかったが、2014年の日本の野球殿堂投票では真っ先に「野茂英雄」と書き込んだ。イチローの大活躍も忘れられないが、私にとっての日本人メジャー最大の功労者はNOMOなのである。

テレビの前で見ていた日本のプロ野球選手、野球少年にも、夢を現実にしたトルネードの活躍は、大きなインパクトを与えた。

98年オフには伊良部秀輝投手の渡米をきっかけに、ポスティングシステム(入札制度)も生まれ、イチロー、松坂大輔が巨額を残して球団を去った。FA権取得者でも秀喜と稼頭央のWマツイがメジャーに進出。97年以降は毎年、日本から米国に旅立っている。

スター流出が日本球界に大きな影響を及ぼしたのは間違いない。ただ、それは野茂の責任ではなく、日本球界の停滞が要因の一つとも言える。

実働10年以上という米野球殿堂入りの資格(引退5年後に投票される)を取得した日本人選手は、現在では野茂だけ。5年後に何票獲得するのか興味深い。そのためにも、あと82に迫っていた、現役でも8人しかいないメジャー通算2000奪三振を達成してほしかった。(了)