第7回 ついに来た天下のホームラン王(菅谷齊=共同通信)
▽ポスターを見て、ベーブが笑った
正力松太郎の大望は、もはや執念だった。
「惣さん、ルースを呼んでくれ」
鈴木惣太郎を呼び、アメリカへ渡ってくれ、と御大は言った。頼りは鈴木しかいなかった、というのが実情だった。
1934年初秋のことである。
鈴木は太平洋を越えた。旅行カバンの中に秘密兵器を忍ばせていた。
ニューヨークに着いたものの、ルースがつかまらない。晩年を迎えていたといえども、ルースは引っ張りだこの人気者には変わりはなかった。
鈴木はあらゆるコネを駆使したが、依然として連絡がつかない苦戦の中にあった。帰国の日が近づいており、焦りが出始めた。
そんなとき、鈴木に情報が入った。
「ルースが理髪店にいる・・・」
鈴木は駆けつけた。直談判である。
「日本に来てほしい」
「ルースさん、日本の子供たちが待っているんです」
ルースが子供好きなのを知っていた鈴木ならではの口説きだった。
それでもルースは返事をしない。取り合わない、といった方がいいだろう。鈴木は持っていた一枚のポスターを広げ、ルースに見せた。
ポスターにはルースの似顔絵が描かれていた。それを見たルースが笑った。
「行こう。ミスター・スズキ、分かった。必ず日本に行く」
▽退路を断った直談判
実は、正力は第2回日米野球の開催を決め、34年元旦の紙面にその社告を打った。ただし、見出しにルースの名前はなかった。ルースの来日が皆目分からない状況だったのが分かる。
米国側で協力者となったのはフランク・オドールという元大リーガー。彼は米国チームの選手選抜に大きく関わるのだが、ルースだけは思うようにいかなかったようである。
「ベーブ・ルース、来日する」
こう報じられたのは7月半ばのことだった。
実は、の第二話がある。この時点で、ルースから来日する最終連絡がなかった。
オドールからは、正式契約はまだしていない、との連絡があったし、なによりもルースの気まぐれな性格に、鈴木は不安を持っていた。
正力も慌てたのだろう、鈴木に渡米を命じた。9月15日、鈴木は横浜からワシントン州シアトルに向けて出発した。
鈴木は鉄道でニューヨークへ。到着したのは日本を出て2週間後だった。今なら1日あれば着く。先人の苦労は大変なものだったことが分かる。
大リーグ要人からの最初の情報は、顔が青ざめる内容だった。
「ルースは、日本行きを渋っている」
理髪店に押しかけてルースに直談判し、ポスターという一枚の紙切れが大役を果たしたのだった。その日、10月1日。
「ルース、来日を約束」
鈴木の電報を目にした正力は、してやったり、と興奮したことだろう。前回の日米野球を上回る人気を得ることは確実だった。
日米野球が始まったのは11月初めだから、わずか1ヶ月前の出来事で、オドールではなく、鈴木にすべてを託して派遣した正力の読みと勝負強さが功を奏した。
日本野球のスタートに大きく貢献したそのポスターは、東京ドームの野球殿堂博物館にある。たった一枚しか残っていない貴重な歴史的物証なので、ぜひ一見を。(続)