(2)野球とスポーツ紙-(蛭間豊章=報知)
-野球文化學會「ベースボーロジー」提携-
▽選評と最小限の記録だったプロ野球の紙面
先ほど申しましたように、野球がメーンの報知新聞東京版を例に挙げますと、1950年代までは東京六大学、都市対抗野球には、プロ野球を超えるスペースが与えられていました。
当時は春夏の甲子園は関東圏の学校が勝ち進んでいった場合を除いて現在よりも小さな扱いでした。
プロ野球も1950年は2ページ、用紙統制が解除された1951年に4ページ、1955年6ページで、プロ野球は戦評(現在の試合経過)とイニング、テーブルのみというケースがほとんどでした。
それでも、大阪発刊の隔週野球雑誌ベースボールニュースの1954年1月号に掲載されたスポーツ報道陣評判記によると、
「老舗の日刊スポーツのベテラン記者が他紙に引き抜かれ、その穴埋めに大学のスポーツ経験者を記者として多く雇うケースが多くなって低迷している“とあります。逆に報知は”読売新聞社会部などから転任してきた記者が独自色でエピソードなどを加えたヒーロー原稿を少しずつ書くようになって部数を伸ばしている」
と書かれています。もちろん、今の時代のように映像などで見られる時代ではなかったことに加え、1954年から56年はユニオンズがパ・リーグに加入しており、1日7試合。スペース的に戦評を中心で、何試合かにヒーロー原稿を入れるのが精一杯だったようです。
▽野茂渡米で大きく変わった大リーグの扱い
昔の新聞を見ると、面白い事に気づきます。
メジャーリーグの扱いを報知のケースで振り返りますと、全試合の結果を掲載し始めたのが1952年から。1955年まで棒スコアに得点、安打、失策、責任投手で本塁打は未掲載。
それが1956年には常時8ページに拡充されたからでしょうか、今では考えられないイニング、得点、安打、失策に、責任投手込みのバッテリー、本塁打。最大の表記は1960年から62年の3年間。当該カードの対戦成績まで入っていました。
それが1967年、69年はともに棒スコアだけという時代を経て、1970年からは現在のスタイル、棒スコア、責任投手、本塁打に落ち着きました。1950年代前半こそ締め切り時間の関連でメジャーの話題物が1面という事もありましたが、日本プロ野球の記事が増えてきた1960年代半ば以降は野球面のもっとも奥に追いやられるようになりました。
1964年9月、村上雅則さんがメジャーデビューした時も3面でした。
しかし、野茂英雄投手がドジャース入りしてからは一気に流れが変わりました。私は1年目の野茂のキャンプと8月に取材に行ったほか、イチロー1年目の2001年も会社から派遣されて行きました。2人とも連日1面か3面を飾るかたちになって、日々ネタを探すのが大変だった思いがあります。
日本人メジャー、それもNPBで結果を残した選手の渡米ですから仕方ないわけですが、逆に日本人が絡まないチームなどやワールドシリーズなどは一気に小さな扱い。個人的には日本人メジャーが登場する前の方がメリハリの利いたメジャー面だったような気がします。(続)