第5回 KKドラフトの舞台裏(1)

1965年の開始以来、さまざまなドラマを生んできたプロ野球ドラフト会議。担当記者にとっては、取材力の見せ所と同時に、甘美と苦痛と後悔の思いがないまぜになる舞台だ。なかでも、清原和博、桑田真澄のPL学園コンビが主役となった85年は、現在でもなお話題を提供する謎のドラフトだった。

▽根本さんが仕掛けた!?

1985年11月18日。運命のドラフト会議2日前のことである。当時、私は入社10年目。報知新聞の巨人担当記者だった。
 通常、ドラフト前取材は、東京・大阪両本社のアマ野球担当と連携しながら、各球団の担当記者が、指名候補者を絞っていく。1位指名を当てることは、普段の球団取材の在り様を評価される。
 ことに報知新聞にとって、巨人の1位指名を前日までに紙面化することは、当然と見られていた。この年は清原を何球団が指名するかが、注目されていた。
 私たちの取材でも「野手では清原」が巨人内部の一致した見方だった。巨人は常に「1位はドラフト当日の朝に正式決定する」と公言している。
 とはいえ、前日までには各セクションとのコンセンサスが得られる。だから19日が勝負の時だった。
 それを前にした19日付の一面で報知は「清原8球団争奪 巨人も急傾斜」と打った。まだ、決定打ではない。
 「巨人は何か考えている。本当に清原で勝負するのか。競合を避けることはないのか。もう1度、最後の詰めをしよう」とYキャップを中心とした担当記者ミーティングで確認をした。
 ライバル他社は「巨人が清原指名」がほぼ不動という感触だ。
 気になる情報があった。
 18日までの取材で、西武が清原の外れ1位に「斉藤学(青学大)か桑田」を考えているというのだ。
 桑田は早稲田大学進学を希望し、退部届も提出していなかった。当時のベテランデスクは「また、根本さんか。目算はあるのか」と西武担当や遊軍記者にその狙いを探れ、とも指令を出していた。
 当日はそれ以上掘り下げることはできず、球界の裏仕事人と言われていた根本陸夫管理部長が仕掛けた情報戦と思われていた。
 それが急展開する。(続)