第8回 「後楽園球場」(上の1)-取材日2008年3月上旬-
◎ミスタープロ野球の涙
▽別れの日、前夜の雨が止んだ
その日、時代を象徴する超人は涙で別れを告げた。プロ野球のメッカ、後楽園球場は”ミスター茂雄の記憶がいっぱい詰まっている。昭和のヒーローの華の舞台だった。
1974年10月14日、超満員の後楽園球場は特別な時を刻んだ。長嶋茂雄の勇姿に別れを告げた日である。
前日の雨も朝には上がった。月曜日、正午開始のダブルヘッダーとあって、5万人の観衆の中には会社や学校を休んで駆けつけた人も多かった。
超がつく長嶋ファンのアナウンサー、徳光和夫(当時32)は番組の収録を済ませると脱兎のように球場に駆けつけ、ネット裏の金網にしがみついていた。
しかし、引退セレモニーが始まるまでは不思議と静かなスタンドだった。長嶋のユニホーム姿をしっかり見届けておきたい、そんな雰囲気なのである。
「いつもの客席と違うな」
巨人の広報担当、小野陽章(はるあき)もそう思った。
「これなら、やれそうだな」
▽土壇場で決まった場内一周
実は1ヵ月前、長嶋が、
「グラウンドを一周してファンに引退の挨拶がしたいのですが」
と言ってきた。
ところが、所轄の富坂警察署も球場側も大反対した。もし、興奮したファンがグラウンドになだれ込んだら、収拾がつかない。大惨事になるのを危惧したのだ。
実際に観衆が暴徒化した事件は各地でいっぱい起きている。危険だから、と説明すると長嶋も渋々納得してくれた。
ところが、第1試合の5回裏、ロッカールームにいた小野のところへ長嶋がやってきた。
「アレ、やりましょう。大丈夫ですよ」
諦めたはずの「場内一周」をまた懇願する。その目は真剣だった。
4回に長嶋は現役最後の通算444号本塁打を左翼へ放っている。
小野は、
「最高のセレモニーになりそうだ」
と意を強くしていたところだった。
「よしやろう」
と決断した。後楽園球場の球場部長、吉井滋に相談すると、
「分かりました。警察には黙っておきましょう」
長嶋の熱意が通じたのか慎重派の吉井の気持ちをも動かした。(続)