「100年の道のり」(95)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)
◎1シーズンで鎮火した水爆打線
日本ワールドシリーズと仰々しく掲げた最初の日本一決定戦は、セ・パ2リーグとなった1950年(昭和25年)のことだった。パの毎日オリオンズがセの松竹ロビンスを4勝2敗で下した。この結果は“大番狂わせ”だった。
下馬評は「松竹の圧勝か」というものだった。その理由は“水爆打線”の異名を取った強力な攻撃力にあった。クリーンアップ・トリオは特筆される成績である。
3番・小鶴 誠=3割5分5厘、51本塁打、161打点
4番・岩本義行=3割1分9厘、39本塁打、127打点
5番・大岡虎雄=2割8分1厘、34本塁打、109打点
このほか1番の金山次郎は3割1分1厘を打ち74盗塁、2番の三村勲が72打点、6番の木村勉が2割9分2厘、7番の荒川昇治が2割6分8厘、そして8番の宮崎仁郎が2割7分3厘。チーム本塁打179(2位中日144)打点825(阪神706)と打ちまくった。投手陣は真田重男38勝、江田貢一23勝、大島信雄20勝と3人でチーム98勝のうち81勝と83%を稼いだ。
対する毎日は3番の別当薫が3割3分5厘、43本塁打、105打点と活躍。4番の戸倉が96打点、5番の土井垣武が3割2分2厘、72打点、続いて6番の本堂保次が3割6厘、84打点。投手陣は荒巻淳が26勝。優勝チームにふさわしい数字を残していたが、松竹と比べると劣る。
ところが毎日の勝利。勝負はやってみなければ分からない、という見本みたいなシリーズ結果だった。この敗戦をきっかけに水爆が自爆、沈下してしまったのである。
実はチーム内はバラバラだった。小鶴のMVPにエースの真田が不満をもらしたところへ真田がお気に入りだったオーナーの田村駒治郎が特別手当を出したものだから選手たちは「ふざけんな」となった。小鶴は前年まで大映に所属していた外様だったことももめる要因だった。
このトラブルで嫌気がさした監督の小西得郎が「やってられるか」と辞表をたたきつけた。翌年の松竹は新田恭一を監督に迎えたが、53勝しか挙げられず4位に落ち込んだ。小鶴は24本塁打と半減し、真田に至っては7勝というみじめさだった。52年に最下位となり、53年には大洋と合併して大洋松竹ロビンスに。監督は前年から大洋の指揮を執っていた小西だった。(続)
