◎長嶋茂雄氏追悼② (編集 露久保 孝一=産経)
▽天真爛漫ミスターと記者のふれあい
―(司会・露久保孝一)長嶋茂雄さんは、記者と明るい姿勢で交流を深めた。記者一人ひとりがいろんな思い出を残している。それを語ってもらいましょう。
佐藤彰雄(スポーツニッポン)「1976(昭和51)年に巨人担当になった。僕は野球とかかわるのは初めてだったので、野球を勉強することからスタートした。巨人の取材をして、長嶋さんはこんなにしゃべってくれるのかと驚いた。宮崎の青島キャンプの取材中に、報道陣と巨人の親睦野球試合があった。僕が打席に立つと、長嶋さんが見ていて僕に教えてくれるのかなと思ったが、それはゴルフスイングだと言われただけだった。長嶋さんは、相手が女性でも誰でも教えてあげたいという性格なのだね」
菅谷齊(共同通信)「佐藤さんが話した宮崎での報道陣対巨人の試合には、私も出ていた。私はサードを守って3番を打った。二塁打2本を打って、2打数2安打だった。長嶋さんが喜んでくれて、敢闘賞をもらった」
山田収(報知)「子どものころから長嶋さんが好きだった。1965年、小学6年生の時、後楽園へ開幕試合を見に行った。座席の番号でプレゼントが当たり、なんと長嶋さんの写真パネルだった。玄関に飾っておいた。記者となって、1年間だけ巨人担当をした。長嶋監督に初めて会い名刺を渡して挨拶しただけなのに、数週間後の多摩川自主トレで名前を呼んでもらった時はうれしかった。これは、震えますよ。あのミスターが名前を覚えていてくれた、というのは感激であり、一生の思い出です。長嶋さんは、なにをやっても絵になる人だった。」
高田実彦(東京中日スポーツ)「長嶋が自主トレで静岡県大仁ホテルに泊まった。僕が取材で訪れ、初めてあいさつしたとき、彼は、座布団からおりて手をついて僕に頭をさげて挨拶してくれた。とても、礼儀正し野球選手だなと感じた」
菊地順一(デイリースポーツ)「1979年、デイリースポーツに入社した。まもなく巨人の取材で後楽園に行って、選手を前にうきうきした。球場のトイレに入ったとき、隣りに長嶋さんがいたのには驚いた。入社して1週間目に、あこがれの長嶋さんと立ちションできたのはいい思い出だった(笑)」
武田幹雄(スポニチ)「初めてミスターにお会いしたのはTBSの局内でした。何の取材だったかは忘れたが、王貞治さんと一緒で、直立不動の新人記者の僕にあの微笑み。それだけで心を鷲掴みされたのを覚えています。名刺を差し上げると、ミスターは人差し指でくるくると巻きだして、あれあれ、名刺はどうなっちゃうんだろうと心配したのを覚えています」
玉置肇(日刊スポーツ)「巨人担当記者として広島遠征で宿舎に着き、ナイターの試合の前に広島護国神社まで散歩に行った。すると、神社に至る公園の一角に黒山の人だかりができていた。近づくと、長嶋さんがお付きの所憲佐さんと散歩していた。長嶋さんは13年ぶりに巨人監督に戻ってきたこともあり、人気がものすごく、およそ1対1で取材するチャンスはなく何とかならないかな?と思案投げ首だった。それがこんな場所で会い、びっくりした。長嶋さんのサイン会が終わったところで『街中で長嶋さんに会ってサインをもらえるなんて今日いた人たちはラッキーでしたね』と長嶋さんに声をかけた。『エッヘッヘ…。練習もそうですけど、ファンサービスも人前でやるもんじゃないんです。人知れずやることが大事なんです』と言われた。直後に、「『イントク』っていうんです。その言葉、知ってますか?」と聞かれた。とっさのことで何を聞かれたかわからず『えっ、何ですか?』と聞き直してしまった。それは『陰徳』だった。この話は長くなるので、あとで続きを話します」
中島章隆(毎日)「僕は、学生の頃は長嶋さんを見たことがなかった。長嶋さんが現役引退する時は、毎日新聞青森支局にいた。1980年、運動部に入り、松井秀喜が入団した時に巨人担当になった。監督はミスターだった。スポーツ新聞は活気があり、長嶋さんのちょっとしたコメントをもとに原稿を書いた。ある試合のあと、長嶋監督に敗因を語らせようとして、僕がその質問をさせられた時もあった」
―「長嶋さんは、新人記者や初めての担当記者に対しても、ベテラン記者同様に気さくに声をかけていたといわれている。そのことが、皆さんの話からよく分かりました」(続)
