「オリンピックと野球」(1)-(露久保孝一=産経)

◎東京五輪のとき、プロ野球界では何が起きていたか?

2020年の東京五輪の前に、最初の東京五輪が開催された1964年のプロ野球の状況と歴史を見つめ直してみたい。この年は、いろいろ喜怒哀楽のドラマがあった。
 例えば「巨人が沈没、シリーズは関西決戦」「王貞治は戦後初の三冠王になるはずだった」「神様・仏様・稲尾様が消えた」「五輪に結ぶ恋」などなど。
 第1回はセ・リーグのペナントレースを検証する。
 

▽あわれ巨人、一度も首位に立てなかった

64年は戦後19年目で、昭和でいうと39年。今から半世紀前。その10月の五輪開幕を控え、プロ野球界では、巨人ファンが「オリンピック年の優勝にふさわしいのは何といっても花の巨人」と夢に描いた。
 その期待に応え、巨人は国鉄(現ヤクルト)との開幕戦に快勝する。王が金田正一から場外ホームラン、長嶋茂雄は初回に先制二塁打を放った。試合は、高橋明が完投して3-1で巨人が4年ぶりに公式戦初戦を飾った。
 しかし、この歓喜は長続きしない。巨人は、勝ったり負けたりで上昇せず、4月終了時点で3位、それから毎月3位で終り、最終的には優勝の阪神から11ゲーム差をつけられて3位に終わった。
 「3位でさんざん、ざんにん五輪の巨人」との嘆き節がネット裏から聞かれたという。
 巨人低迷の真相は何だったのか? 戦力的には、投手陣の故障が響いた、といわれている。しかし、それが主な原因ではなかった、という他球団首脳の分析がある。

▽不調・不振・不在の「不」の三重苦

「巨人浮上せずの原因は投手陣の核の不在、つまり“エース不在”である」と結論付けたい。投手陣の先頭に立ち、檄を飛ばし、発奮させ力投に結びつける…そういう大きな存在がなかったのだ。
 エース格の藤田元司は8勝11敗(前年10-4)、城之内邦雄は18勝16敗(同17-14)。さらに、高橋明12勝14敗(同14-13)、伊藤芳明11勝12敗(同19-8)である。
 全員が前年は勝ちが負けを上回っているのに、64年はほぼ全滅の負け越しである。こうした不振は、エース不在が影響している。
 この年の巨人は、不調・不振・エース不在という三重苦によって3位に終わった時代だったのだ。しかし、この年の反省が次の年からの大きな飛躍につながっていく。(続)