「オリンピックと野球」(12)完 ―(露久保孝一=産経)
◎五輪を前に神宮燃える完全試合
この連載では、主にプロ野球を題材に書いてきた。最終回となる今回は、のちにプロ野球選手になるが、東京六大学(以下、六大学)で大記録を打ち立てた男を取り上げる。第1回東京オリンピック大会当時の社会的な人気は、「巨人、大鵬、卵焼き」であった(連載10回目)。同時に、この頃の六大学の人気もかなり高かった。特に、早稲田―慶応戦は神宮球場が満員になるほどだった。
そんな六大学で、大記録が生まれた。春季リーグ戦の慶大―立大2回戦で、六大学野球史上初の完全試合が達成された。1964(昭和39)年5月17日、5カ月後に開催される第1回東京オリンピックに向け、スポーツ熱を一段と高めた。神宮を燃え上がらせたのは、4年生の慶応のエース・渡辺泰輔投手だった。
▽慶応エース渡辺が立大を82球で料理
わずか82球で27人を凡退させた。立大は、土井正三、谷木恭平らプロ入りした選手が4人もいて、手ごわい相手だったが、渡辺は魔球パームボールと快速球を使い分けて封じ込んだ。内野ゴロ11、内野飛球4、外野飛球5、奪三振7の内容であった。
渡辺は慶応高から注目された。元プリンスホテル監督の石山建一は、「高校生が大人の剛速球を投げていた」と評した。しかし、その渡辺は神奈川県大会で法政二高には勝てなかった。2年生の時に決勝戦で敗れ、3年生ではY高(横浜商)をノーヒットノーランで下して決勝に進んだが、法政二高の柴田勲(のちの巨人外野手)と投げ合い、延長11回敗退した。法政二高は前年から夏春甲子園で優勝した強豪で、剛速球の渡辺でも勝てない「高校ナンバー・ワン」のチームだったのである。
▽祭典の年にもう一度見たい熱投の「完全」
渡辺は、「完全男」の評価で当時の史上最高額の契約金5000万円で、65年南海(現福岡ソフトバンク)に入団した。翌年16勝をあげ、巨人との日本シリーズでは6戦中4戦に先発し、第2戦で完投勝利した。現在では「酷使」と批判され実現不可能だが、この時代は「豪傑」と称賛された。72年限りで引退し、プロ8年間で54勝58敗だった。その後、野球界を去り、実家の福岡の会社を継いで社長になった。
完全試合がどれほど困難で、どれほど価値が高いものかは、その歴史を見ればよくわかる。プロ野球では、最近では94年に巨人・槇原寛己が広島戦を相手に史上15人目の完全試合をやってのけている。それ以来、達成者は出ていない。六大学では、渡辺を含め3人しか成し遂げていない。これを見ても、いかに偉大なる記録かがうかがわれる。
自宅に飾ってある完全試合ボールを見つめ、渡辺はプロ・アマ野球の人気復活を強く願っている。2021年の東京五輪開催では、完全試合よもう一度、と密かに待っているかもしれない。(了)