「菊とペン」-(菊地 順一=デイリースポーツ)

◎開幕投手を奪われたエース
コロナ禍に見舞われながらも、2020年のプロ野球がやっと開幕した。まずは良かったと思うし、何事もなく1シーズンを全うしてほしい。
 ところで、私、開幕日というと、必ず思い出す話がある。あと1カ月もすれば、年金を満額支給される年齢となるが、現役バリバリの頃のことである。
 人気球団のX投手はQ投手と並ぶ2枚看板である。その年もXとQはともに開幕投手の有力候補となった。キャンプ、オープン戦を通じて監督が下した結論はQだった。
 開幕日、先輩記者は朝から有力候補のQの自宅へ出向いた。車に他社の記者と同乗してネタを仕込むためだ。
 で、私、万が一ということもあるからXの自宅に回った。やはりと言うべきか。Xの自宅には他社の記者はいない。朝から立ちっぱなしでXが姿を見せたのは昼前だった。 私を見ると、にやっと笑って、
「乗る?」
衆目の一致するところ、エースにふさわしいのはXの方だった。ガッカリしているか、と思ったが、そんな雰囲気はない。むしろ、機嫌がいい。
 車中、2人きりだ。
私、「いよいよ始まるね」
 X、「…」
しばしの沈黙後、発した言葉は、
「あーあ、早くオフにならないかな」
 私、笑うしかなかった。
開幕投手を奪われて、悔しがっている。こう考えたのは勘違いもいいところだった。彼の気持ちはオフに飛んでいたのである。
 確かに、この頃、プロ野球選手はオフともなると、遊び回っていた。ゴルフが連日続いて、いちいちホテルに泊まるのは面倒臭い。そこで、ゴルフ場近くに駐車して、そのまま運転席で仮眠を取り、ラウンドした選手を知っている。付き合ったからだ。
 -寝る間も惜しい。遊びたい-
この言葉がピッタリである。でも、それはあくまでもオフの間だ。開幕日は選手にとっては正月である。少しは今年に向けた言葉の一つもあっていいが、車中では野球の話をほとんどしなかった。世間話とウワサ話。正直な話、こっちの方がよほど面白かった。
開幕投手を奪われた照れ隠しも感じられなかった。有り余る素質を持ち、息の長い活躍とともにエースとして君臨し、大輪の花を咲かせる。周囲からはこう期待されていた。
だが、そうは運ばない。なにかが物足りない。心中、密かに応援していた私はモヤモヤしていた。
 その年、Xは電撃的に引退した。
 引退の一報を聞いた私はモヤモヤが少しだけ晴れた気がした。以来、開幕日ともなると、なぜか、思い出す。(了)