「スポーツアナウンサーの喜怒哀楽」(6)-(佐塚 元章=NHK)

◎柴田さんからのレターが少年に夢を
 2024年6月18日、東京プロ野球記者OBクラブの総会・懇親会が開催され、ゲストとして巨人軍V9の戦士・柴田勲さんが参加した。「赤い手袋」ならぬ、赤いスポーツシャツで颯爽と登場、その姿はとても80歳を迎えたとは思えない若々しさだった。
 講演の冒頭で柴田さんは法政二高時代、憧れの映画スター吉永小百合さんにファンレターを送り、吉永さんから直筆の返事が届き大感激したという青春時代の思い出を話された。実は、7歳年下の私は小学生の時、その柴田さんにファンレターを書いたのである。巨人に入団し二軍にいた柴田さんに“頑張ってください”という激励文だった。半年後、本当に柴田さんから直筆の返事が届いた。大感激! 飛び上がって喜んだものだった。柴田さんはそれぐらいの大スターだったのである。
 私にとっての柴田さんは巨人軍の選手ではない。法政二高のエース・甲子園のヒーローとしての存在である。優勝投手になったのは 昭和35(1960)年夏、36年春である。日本は、戦後の高度成長期に入り、その象徴的存在がテレビであった。テレビは家庭の必需品となりつつあった。そんなテレビ時代到来のまっただ中に柴田投手は登場し、全国区のヒーローになった。
 さらに私にとっては、35年夏、我が故郷、静岡高が決勝進出、法政二高柴田、静岡高石田勝広の2年生エースが投げ合った試合は興奮させられた。小学4年生の私はモノクロテレビに釘付けになった。3対0で法政二高が優勝。ブラウン管に映ったあのナインは、都会の洗練されたレベルの高いチームに見えた。法政二高は翌年センバツも制して夏春連覇。そして史上初の夏春夏3連覇なるかが国民的関心事となった。
 話はちょっと横道にそれるが、同年夏の県大会の直前の6月、静岡県高野連が草薙球場で法政二・静岡高校の招待試合を企画した。前年の甲子園決勝の再現、柴田・石田の投げ合いが見られるとあってスタンドは超満員、ところが土砂降りの雨、私も傘をさしてずぶ濡れで観戦したが、とても野球ができる状態ではない。連盟はファンのために試合を強行、5回でノーゲーム。静岡高ナインはユニフォームのままで静岡駅ホームに向かい、東海道本線で横浜に帰る法政二高ナインを見送ったという。なんとも麗しい話である。
 そして8月、3連覇がかかった夏の甲子園がやってきた。法政二高は準決勝で、怪童・尾崎行雄投手のいる浪商と一騎打ちとなる。一回裏に柴田選手の信じられない走塁が見られた。二死一塁柴田、ここで次の打者とのヒットエンドラン!レフト前にボールが飛び、レフトが二塁にゆっくりボールを投げると、なんと柴田選手は一気にホームまで駆け抜ける快速ぶりを発揮したのである。その浪商のレフトは1年生の高田繁選手であった。試合は2-0、法政二リードで9回も2死!ここから浪商の反撃が始まった。尾崎のタイムリーで2対2同点とし、延長戦へ。延長11回ついに柴田投手は力つき、法政二高の夏春夏3連覇の夢は消えたのである。
 今回の柴田さんの講演で初めて知ったことがあった。「実はあの準決勝の3回から肩が痛くなって思うように投げられなかった」と語ったのである。試合終盤もボールの力、コントロール、配球といい、高校生離れした投球と子供ながらに見ていた柴田投手だったが、浪商奇跡の大逆転の真相はそうだったのか・・・63年前の真実を知った思いだった。
 メディアのエース格となったテレビ放送を通じて甲子園のドラマに感動した私は、スポーツ放送・大好き少年となり、いつしか放送に関わりたいと思うようになったのである。不思議なことにプロのアナウンサーになってからの「仕事の野球」より、子供の頃テレビで見た「ファンとしての野球」の方が、今もしっかり記憶に残っている。(続)