「インタビュー」柴田 勲(2)-(聞き手・露久保 孝一=産経)
◎阪急と死闘、この1戦に負ければV9は無かった
―V9の中においても、困難な時はあったと思います。例えば、この1戦を落とせばV9は達成できなかったとか。そんな試合はありましたか?
柴 田「絶体絶命のピンチはありました。巨人が日本一を勝ち進めていた頃、パ・リーグは阪急が強かった。そのブレーブスと戦った日本シリーズの第3戦、山田(久志)投手に抑え込まれ、完封負けかというところまで追い込まれた。この試合に巨人が負けていたら、阪急が一気呵成に突き進んでいったと思う。V9はなかったかもしれない」
≪昭和46(1971)年のシリーズ巨人-阪急戦は1勝1敗で第3戦を迎えた。先発した山田は八回まで巨人打線を2安打に抑えていた。このまま阪急が勝てば2勝1敗になり、強い阪急に勢いがつく。しかし、巨人が二死から大逆転勝利を収めたのである≫
柴 田「九回になり、一死から僕は四球で塁に出た。柳田(真宏)選手が打ち取られ、2死となった。次の打者は長嶋(茂雄)さん。カウント1-2後に、僕に盗塁のサインが出た。僕は走った。長嶋さんは低めのボール球を打った。『柴田、ヒットエンドランのサインだったよな』と長嶋さんはそう言った。長嶋さんの勘違いです。打球はゆるいゴロで内野手の間を抜け、僕は三塁に走った。二死一、三塁になった。土壇場、わが巨人にチャンスが巡ってきた」
-長嶋さんは、なんでサインを見間違いたんですか。
柴 田「何を勘違いしたのか? でも、エンドランのサインと思って長嶋さんはバットを出した。それがボール球を打ってヒットにつながった。僕が盗塁してショートが二塁カバーに走った。その空いたところに長嶋さんのゴロが転がっていった。これぞ、”人生のいたずら”ですよ」
-柴田さんは三塁に進んで、そこから4番王貞治さんと山田さんの対決を見たわけですね。
柴 田「王さんは、やや低めの球を外野へ打ち上げた。高めの球だったら、打球は高く上がってホームランにはならなかった。しかし、打球は外野スタンドまで飛び、サヨナラホームランになった。すごい試合だった」
ー柴田さんのフォアボールから始まった九回の攻撃は、いろんなドラマがあった。王さんに打たれた山田投手はマウンドでしゃがみ込んでしばらく動けなかった。
柴 田「わが野球人生の中で、最も印象に残っている試合です。僕はね、自分のホームランとか盗塁とか劇的なものはあるけど、この時の打たれた山田君の姿にすごい衝撃を受けた。サヨナラホームランを打った王さんよりも、打たれた山田君の姿に引き込まれてしまった。懸命に投げて、あと一歩のところで、ちょっとの差で勝ちが逃げた。われわれは山田君と戦って、勝負運がこちらにきてV9につながった。大舞台における、すさまじい、良き思い出です」(続)
≪しばた・いさお≫ 1944(昭和19)年2月8日、神奈川県横浜市生れ。法政二高でエースとして60年夏、61年春の甲子園で連続優勝。62年巨人に入団。この年0勝2敗で終り翌年から外野手に転向。スイッチヒッターになり「赤手袋」をはめて盗塁王を6度。通算579盗塁は現在もセ・リーグ記録。日本プロ野球名球会会員。