「100年の道のり」(80)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)
◎ライバルのエースをいただく
都内のいきつけの小料理屋でその話を巨人の幹部が聞いた。1948年(昭和23年)のシーズン中のことである。その話とは…。「別所が球団とモメている」。別所(昭、のち毅彦)とは南海ホークスのエース。この年、26勝を挙げてチームの優勝に大きく貢献した。
別所はシーズン前に「今年は優勝したら自宅が欲しい」と球団に要望した。子供が生まれる時期だったからである。前年に30勝して最多勝を獲得していたから自信があったのだろう。年俸の大幅アップを申し出たわけである。ところが球団は否定的な回答。この年で契約が切れることもあって「それなら辞める。ヨソの球団へ行く」となった。
件の小料理屋が別所夫人の実家だったことから、夫人がいろいろと相談した。それが巨人フロント氏の耳に入り、監督の三原脩に伝えた。超ど級の情報に知恵者の三原が黙っているはずはない。
このシーズンから指揮を執っていた三原は前年5位から2位に押し上げたものの、首位南海に5ゲーム差をつけられた。別所さえいなければ、という計算は簡単にできる。
「あのエースをいただこうじゃないか」-巨人は別所獲得に全力を挙げた。東京で後楽園球場での試合後に別所と会い、家の一軒ぐらいどうぞ、と相手のもっとも求めていることを飲んだ。
別所はシーズン終了後に「巨人に行きますので、失礼」。大慌てとなった南海は、連盟に「巨人は違反のシーズン中に引き抜き工作をしたから移籍は無効」と訴えた。なにしろ優勝チームのエースが2位チームに移るというのだから大騒ぎになった。南海の山本(のち鶴岡)一人監督にすれば翌年のチーム凋落を恐れ、引き留めに動いたが、すでに遅し。
連盟の決着は、別所の「移籍は有効」としたうえで、巨人に「シーズン中の交渉は違反で罰金10万円」と「南海にトレードマネー21万円」の支払いを命じ、別所の49年シーズンは「2か月出場停止」とした。
巨人にすれば「別所さえ手に入れば万々歳」の心境だったろう。これが球史に残る“別所引き抜き事件”である。南海の油断があったことは間違いない。
ジャイアンツのユニホームを着た別所は、シーズン途中から先発ローテーションに加わり、25試合に登板して14勝を挙げ、優勝の大きな手助けとなった。三原は2位阪急に16ゲーム差をつけてのぶっちぎりゴールインに会心の笑みをもらした。
南海は勝率5割ちょうどで4位に転落、巨人とのゲーム差は18.5という大差だった。親分の愛称を持つ山本は言葉もなかった。
別所は巨人へ移ると、名前を「昭」から「毅彦」に改めた。滝川中時代、甲子園の選抜大会で左腕を骨折しながら投げ抜いて敗戦となったとき「泣くな別所、センバツの華」と讃えられた有名なエピソードを生んだ。そしてエースとして南海を背負った。その本名の「昭」と縁を切っての”花のお江戸”行きだった。(続)