「野球とともにスポーツの内と外」(64)-(佐藤 彰雄=スポーツニッポン)
◎GHQと戦後日本のプロ野球
8月6日広島、8月9日長崎…それぞれの地への原爆投下。そして8月15日終戦-。1945年(昭20)の8月は、日本にとって「痛恨の季節」ですね。その事実はその後の日本が、ときを経てどう変わろうと過去のものとしようと風化させてはならない出来事です。
人々に黙祷(もくとう)を告げるアナウンスが3度、街中に流れる中、そうした当時の出来事を調べていたところ、資料の中に「日本のプロ野球が1945年11月23日に復興第1戦を行った」という記述がありました。東軍対西軍の「日本職業野球連盟復興記念東西対抗戦」(東京・神宮球場)です。興味深かったのは、終戦からわずか「100日」で復活した早さでした。
▽終戦からわずか100日で再開
戦勝国の米国が日本への占領政策を実施するため「連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)」を東京に設置したのは1945年10月2日とあります。まず何から着手すべきか。GHQの野球への着目は、敗戦という明日への希望をなくした日本国民の失意の中、日米で人気のある野球は、きっと明るさを灯すだろうとの“政策”があったと伝えられています。打ちひしがれた人々が立ち直るにはスポーツこそが効果的と考えたかどうか、いかにもアメリカ的です。
こうして再開した戦後の日本プロ野球は、やがて「2リーグ制」へと移行します。「太平洋野球連盟(パ・リーグ)」と「セントラル野球連盟(セ・リーグ)」の設立ですね。セ・パ両リーグの優勝チームが日本一を争う日本シリーズは、米大リーグのワールド・シリーズにならってGHQが提案したものとされています。その2リーグ制が始まった1950年(昭25)のシーズン。同年8月に後に私が社員となるスポーツニッポン東京支社(当時=現・本社)が設立され、専門紙によるスポーツ報道もスタートしています。
▽戦後79年となる今
私たちの年代が小学生だったその頃、遊び仲間たちは学校を終えた後、小遣いを握りしめて近くにあった駄菓子店に集まり「紅梅キャラメル」(発売元=東京紅梅製菓)を買うのが常でした。別にこのミルクキャラメルが特別においしいとかではなく、お目当てはおまけにつけられているプロ野球・巨人軍選手のカードでした。
水原茂(後に円裕)監督がいてあの川上哲治、千葉茂ら…外野手には与那嶺要、青田昇、南村不可止(後に侑広)、投手には別所毅彦…とてつもないスター軍団だった巨人軍選手の名前は皆、紅梅キャラメルを通して覚え、あの頃の小学生たちは、まさに「野球は巨人、キャラメルは紅梅」のキャッチコピーに躍らされ、親に小遣いをねだっていました。
GHQの野球というスポーツを媒体とした占領政策は、敗戦国の人々の心を和らげたかもしれないこと、日本が今日の野球大国に至る礎を築いたこと、などのプラス面が考えられます。そして“戦後79年”となる今、日本の大谷翔平投手(30=ドジャース)という天才が、米球界を席巻していることにつくづくと運命的なものを感じます。(了)