「ONの尽瘁(じんすい)」(15)―(玉置 肇=日刊スポーツ)
前回に続いてクロマティの「グラブ蹴っ飛ばし事件」について書く。
1986(昭和61)年4月26日、試合前の多摩川練習でグラブを蹴り、あからさまにチーム方針に反旗を翻したクロマティの言動に対して、監督の王貞治は本人への事情聴取を行い厳重注意こそ与えたが、試合出場禁止などの厳罰に処することはなかった。王の当時の談話にもあるように「(この一件で)気持ちが1つになるというか、また彼にも目覚める部分があるでしょう」と、プラス志向の処分で発奮を促そうとした。
当時のクロマティといえば、入団3年目で紛れもなく巨人の中心選手として「我が世の春」を満喫?していた時期だ。
王政権1年目の84年に巨人入りするといきなり35本塁打、打率.280、93打点をマーク。翌85年も32本塁打、打率を3割に乗せ(.309)、112打点と、日本球界への順応ぶりを示していた。
加えて、風船ガムをプーッとふくらませたかと思えばすぐにパチンとしぼませるなど、ひょうきんな一面をのぞかせ、本塁打を放ったあと守備に就くと外野席のファンと一体となった「バンザイ・パフォーマンス」とあいまってすっかり人気者になっていた。
言ってみれば、その事件は日本球界での慣れと、そこから来る慢心によるものだったといえなくもない。王は、こうも言った。「後半戦の彼の踏ん張りを見ていると、こちらのことを理解してくれたと受け取っている」。事件が、そうしたマンネリ化した空気感にピシャリと緊張の打ち水を浴びせかけてくれた、とでもいわんばかりだった。
王とクロマティの関係は、むしろ良かった。指揮官としての王との間に「カベ」を築きがちな日本人選手とは異なり、クロマティは王に対しても軽口をたたき、王にとってもジョークを言い合える仲だった。クロマティはチーム専属通訳にこうも言っている。「ボス(王)とオレはフレンドシップ(友だち関係)ね」。
それだけにクロマティの行為は、王には想定外であり、ファンやマスコミの面前であろうと、チームに芽生えた不信のタネは何が何でも摘み取っておかねばならない、と感じたのだろう。
王が言うように、クロマティの「改心」を感じたシーンがある。
86年シーズン終盤、チームは2位広島に2ゲーム差をつけ優勝に向け進撃を続けていた。10月2日のヤクルト戦(神宮)。クロマティは高野光の投じた145㌔の速球を頭部に受け、その場に昏倒。救急車が呼ばれ、球場近くの大学病院に搬送された。診断は頭部打撲。重傷は免れたとはいえ病院は入院を勧めた。クロマティはそれでもこっそり自宅に戻り、翌3日の同戦にも何食わぬ顔で球場入りした。王はさすがにスタメン出場には慎重だった。だが、3-3の6回2死満塁と絶好機を迎えると、クロマティを代打で起用した。助っ人は指揮官の思いに応え、奇跡的なグランドスラムをセンターバックスクリーンにたたき込んだ。
右腕を突き上げながら、ホームに到達したクロマティはベンチ前で王ときつく抱き合った。はばかることなく涙をこぼすクロマティ。王にもこみあげるものがあった。
男気(おとこぎ)を見せたクロマティに汚名返上の熱が感じられた。また王にすれば、みずからの選手管理に自信を深めることにつながった。良きにつけ悪しきにつけ、巨人を生かすも殺すも、クロマティしだいー。王には、それがわかっていたのだろう。
そのシーズン、クロマティは大車輪の活躍だった。後半は故障で離脱した原辰徳に代わって4番に就いた。打率.363、本塁打37、打点98。どれをとってもチームNO・1の数字をたたき出し、最後まで巨人を優勝戦線に踏みとどまらせた。たらればが許されるなら、3冠王に輝いた阪神バース(.389)がいなければ文句なしの首位打者だったし、優勝が叶っていればMVPの筆頭候補だった。
選手管理に自信を深めた王は、3年目の「初」に向けて遮二無二タクトを振り続けた。(続)