◎外様大名と巨人(菅谷 齊=共同通信)
プロ野球の世界にも譜代と外様がある。「生え抜き」が譜代で外様は「中途加入」。大物選手になると「譜代大名」「外様大名」と呼ばれる。
多くのチームも大物実力者を他球団から取りたがる。戦力強化なのだから当たり前の話であって、これはファンの期待にこたえる大きな目的を持つ。この外様は多額の資金が必要になるから、競い合ったあった場合は数字が勝負の分かれ目になることが少なくない。
外様大名といえば巨人である。
巨人はいうまでもなく球界最古参であり、優勝回数もけた外れに多く、それで盟主の座に座り続けている。勝利の功労者として外様大名が存在したこともまぎれもない事実で、その顔触れを振り返るとそうそうたる選手がずらりと並ぶ。
2リーグになって2年目の1951年から巨人は第2期黄金時代を築いた。そのとき投手陣を支えた別所毅彦は2年前に南海から引き抜いたエースで、その後に300勝をマーク。代表的な外様大名だった。
その別所より100勝ほど多い400勝を挙げた金田正一は“超”の字がつく外様大名だった。60年に国鉄がサンケイに身売りしたのを機に、14年連続20勝を引っ提げて巨人に移った。いきなり開幕投手となって勝ち、不滅の9連覇の最初の勝利を印した。
長島茂雄が監督になった75年は球団史上初の最下位に。復活のために日本ハムから獲得したのが張本勲。首位打者7度の安打製造機で、王貞治と形成した“OH砲”で2年連続リーグ優勝に貢献した。
長嶋監督はロッテ時代に三冠王3度で中日にいた落合博満を取ったのが94年。中日との最終戦で優勝したときの活躍など大きな働きを見せた。その後に獲得したのが西武の清原和博である。西武時代のような働きがなかったが、存在感は抜群だった。
巨人はまた、日本ハムの小笠原道大やソフトバンクの工藤公康らを取り、優勝を手にした。
以上の大物で、巨人選手として卒業したのは別所と金田ぐらい。張本はロッテに移って3000安打を達成。落合は日本ハムへ、清原はオリックスへ移った。
金田は引退したとき「400勝したしとき、長嶋が泣きながら“カネさん、お疲れ様”と言うんだもの、辞めないわけにはいかんやろ」と言い、後日「現役を続けるつもりでいた。ヒジの調子がよかったから」
その長嶋の元を去るときに落合はこう語った。
「清原獲得のうわさがずっと流れていたからね。(清原加入で)長嶋さんが、落合を使うか清原を使うか、で迷う姿を見たくなった」。泣かせる話である。(了)