「記録とメジャーを渡り歩いた記者人生」(6)-(蛭間 豊章=報知)

◎大リーグ本塁打競争を変えた大ブーイング

記録とメジャーを掛け持ちしていた1998(平成10)年、私は勤続25年の休暇をもらった。何をしようか迷っていたときに、MLBに関係していたエージェント会社IMGの方から「チケットとりますからデンバーでのオールスターを観戦しませんか」との申し出を受けた。IMGとは報知新聞でオースター戦読者招待というビッグな企画をおこない、つきあいがあった。当時の部長にお伺いをたてると、「現地で原稿を書けば、アゴ、アシ出してやる」と言われた(いい時代でもあった)。

この年はマーク・マグワイアとサミー・ソーサの本塁打争いが全米を沸かせ、もう一人ケン・グリフィーも本塁打を連発していた。ソーサは負傷で本塁打ダービーを欠場していた。

観戦したクアーズフィールドは、球場史上最多の5万1231人で埋まった。球場が突然、ブーイングと歓声で包まれた。本塁打競争でグリフィーの名前がアナウンスされた時だった。試合前の記者会見で出場辞退を表明、前半戦37発のマグワイアとの対決を避けたが、態度を変え姿を見せたのだ。計10打者が出場して1回戦が始まり、グリフィーは9番目に登場した。最初の5スイングで1発しか打てずブーイング。それを歓声に変えたのは、現役最速の97マイル(約156キロ)の強烈なスイングだ。その後12スイングで7発。1発ごとに観衆はスタンディング・オベーションでたたえた。結局、8発放ち準決勝に進んだ。

グリフィーの量産に焦ったのか、続くマグワイアは最長510フィート(約155メートル)の豪快弾を披露したものの、4本だけで1回戦で姿を消した。グリフィーは2回戦でも8発を放ち決勝進出。決勝ではトーメイが2本に終わり、グリフィーは2アウト分を残し、3本目の“サヨナラアーチ”で優勝を決めた。右翼の臨時記者席に座っていた私は東京中日スポーツの松原明さん、パンチョこと伊東一雄さんとともに、ファンと一緒に立ち上がって拍手を送った。
グリフィーが出場を決意したのは、打撃練習時に欠場の大ブーイングが起きたためだった。彼は「ショックだった。球宴は(ファンを)楽しませる場所、ブーイングを受ける場所ではない」と話した。この年から本塁打競争がゴールデンタイムで全米中継されるようになった。CMタイムには場内のスクリーンで、かつてのミッキー・マントル、ウィリー・メイズらの本塁打競争が流されていた。クアーズフィールドは標高1600メートルで打球がよく飛ぶスタジアムとして知られ、本塁打競争にはもってこいでもあった。本番の試合は4本塁打が飛び出して13―8でア・リーグが打ち勝ったが、私にとってはこの年の本塁打競争を観戦したことで満足だった。(次回は5月1日掲載予定)

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