「100年の道のり」(88)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)
◎空前の引き抜き合戦
8球団維持か、10球団か。1949年(昭和24年)9月末、連盟顧問会議(今のオーナー会議)が開かれた。場所は東京港区内幸町にあるビルの地下の日本野球クラブ。巨人の安田庄司、阪神の野田誠三、東映の大川博、大映の永田雅一、中日の杉山虎之助、阪急の小林米三、南海の壺田一郎、大陽の田村駒治郎が顔をそろえた。
ここで決まったのは、50年は2球団を増やして10球団とし、のちにもう2球団増やして2リーグ(1リーグ6球団)とする、というものだった。毎日新聞の参画は織り込み済みで新たにもう1球団の参加ということである。
ところがそんな取り決めなど関係ない、とばかり次々と加入を求める企業が名乗りを挙げた。既存の連盟の力が全く働かない状況に陥った。それが毎日を中心としたパ・リーグ(7球団)が結成、追ってセ・リーグ(8球団)が生まれ、一気に2リーグに走った。
球団倍増。当然、選手不足である。選手引き抜きが球界を襲った。大ニュースとなったのは毎日の所業で阪神からレギュラー6人を獲得した。それも12月31日の出来事だった。
エースの若林忠志、捕手の土井垣武、内野手の本堂保次、大舘勲、それに1番打者の呉昌征、そして大スターの別当薫。毎日はこのメンバーで2リーグ最初の日本シリーズ優勝を飾った。
この毎日と日本一を争った大陽改め松竹に大映から5人の主力が移った。51本塁打を放つことになる小鶴誠、強打の大岡虎雄、盗塁王の金山次郎らである。
移籍の嵐は吹き荒れた。巨人からは投手の20勝投手の川崎徳次が西鉄、三冠王の中島治康は大洋へと。阪急からは10人が抜けた。中に3人の捕手がいた。日比野武、永利勇吉(ともに西日本)楠脇郎(西鉄)。また平井三郎は西日本に行き、それから巨人に移って第2期黄金時代の遊撃手として活躍する。
50人の選手が移籍するという前代未聞の事態だった。各チームの移籍人数は最多の阪急に次いで東急9人、阪神と大映各8人、大陽(松竹)7人、巨人6人、南海5人、中日2人だった。
日本野球連盟は11月26日にセ・パ2リーグ分立を発表し、12月19日の解散。それから間もなく阪神-毎日の大量移籍が表ざたになった。まさに“激動の時代”を象徴する出来事だった。(了)