「ONの尽瘁(じんすい)」(23)―(玉置 肇=日刊スポーツ)

一時は広島に最大5.5ゲーム差をつけ、初優勝をほぼ射程圏内にとらえたと思われた1986(昭和61)年の王巨人。8月におぼろ見えていたのは、文字通りの「邯鄲(かんたん)の夢」であった。9月23日からの広島との直接対決3連戦(後楽園)で負け越したことが、後々まで尾を引く。
初戦は1-5。負けられない重圧とも戦った巨人先発江川卓だったが、小早川毅彦に先制弾を浴び、衣笠祥雄にはその生命線だったインサイドを左翼席まで運ばれてリードを広げられた。攻撃面では1番打者の松本匡史が意表を突くセーフティーバントを敢行も、アウト判定に激高。珍しく審判に体当たりを食らわし、退場処分となった。監督王貞治の猛抗議も実らず、劣勢を覆せない展開にジリジリするばかりだった。広島はこの日の勝利で残り試合の多かった関係で、マジック「14」を点灯させた。
さらに2戦目、王巨人は「アゲンスト」の瞬間最大風速に見舞われた。試合前のメンバー発表で、5万観衆がどよめいた。巨人の4番はクロマティ、そこが定位置のはずだった原辰徳は、何と6番に降格されていたのだ。
悔しくないはずはなかった。主砲の意地もあっただろう。原の思いが集約されたのが、0-2で迎えた7回裏の打席だった。先発左腕・大野豊の115㌔のカーブを左翼ポール際に反撃の36号ソロを放った。原はこのときの心情を、こう残している。
「打順を気にするとかより、とにかく今は試合に勝ちたい」
どんな試合も「流れ」というものに支配される。指揮官の試合運びやキーとなる選手のプレーによって、試合の流れは、敵にも、味方にも、あざなえる縄のごとく折り重なって、移ろう。この日、それを決めうる主役は紛れもなく原、その人だったろう。
だが、この意地の一発をもってしても、流れを自軍に引き込めない何かが、このときの巨人に巣くっていたというしかない。
悲劇は9回。原は、2死一塁の場面で抑えの切り札・津田恒実と対峙(じ)した。粘って7球目。外角高めのストレートをフルスイングしてファウルした際、左手に激痛が走った。左有鉤骨(ゆうこうこつ)骨折で全治2カ月。原自身、後に「事実上、バッター原辰徳は、この骨折の時に終わりました」と自嘲するほどの重傷だった。
原のアクシデントを暗示する出来事も。8月7日の中日戦での守備。三遊間の当たりにダイビングキャッチした際に左手首を痛め、「左手首関節挫傷」と診断された。王は「ケガならやむを得ないが、骨に異常はなく1週間、長くて10日で帰ってくると思う」と前向きだったが、原が4番復帰を果たすのは、それから2週間後の8月20日(ヤクルト戦)だった。その試合で原は先制2ランを放ち、みずから快気を祝った。王にすれば、主砲の復帰で戦闘態勢の再構築がなされた思いだったろう。
原の2度目のリタイアは、それだけ、巨人に黒く、深い影を投げかけた。王は後にこう話した。「原が抜けたのは、やっぱり苦しかったですね。『4番打者失格だ』とか、いろいろ言われても、やっぱり、ずっと4番を打ってきた男ですからね。それが欠けるということはチームにとっては大きなマイナスでした」。4番にはクロマティが座り、サードは中畑清が回った。ムードメーカーたちが躍起となってナインを鼓舞した。3戦目はクロマティが気迫あふれる三塁へのヘッドスライディングを見せるなど、6-2と快勝。広島のマジックは消え、残り9試合のサバイバル戦に突入した。
一方で、巨人にとってもう1つの逆風となったのは、敵の「超ベテラン」の存在だった。
元より、広島は山本浩二の引退と衣笠の連続試合出場記録という難問を抱えていた。山本40歳、衣笠39歳という年齢ゆえ体力が落ちる夏場がポイントとされ、当人たちの試合出場問題が指揮官の頭を悩ませるだろうーとの読みが、巨人にはあった。ところが9月初旬、山本は今季限りでの引退を正式に表明。監督の阿南準郎は言った。「『浩二さんが引退するなら、ここで花道を飾らせてあげたい』と、選手全員が1つにまとまった」。
節目の就任3年目を、王は、優勝で飾ることが出来なかった。しかも当時の安全圏とまでいわれた「75勝」を挙げながら、あと1歩届かなかった。その責任をとるべく「進退伺い」を提出した。とはいえ、球団はこれを受理せず、王も次のシーズンに向けての雪辱を胸に刻む。指揮官を、来季に翻意させた優勝への「手応え」とは、何だったか…。(続)