「100年の道のり」(89)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)
◎1年でつぶされた国民リーグ
自動車や自転車など乗り物のラッパ(クラクション)で大儲けした戦後の企業の一つに宇高産業というのがあった。社長の宇高勲に付き合いのあった慶大野球部OBから「野球をやりませんか。選手が復員してきますから」と声がかかった。1946年(昭和21年)のことだった。
「戦後のすさんだ世の中を変える娯楽が必要だ、と考えて乗り出した」と宇高。明大出身の人脈を生かして明大OBのプロ選手を集めた。巨人の藤本英雄もその一人だった。宇高はチーム(レッドソックス)を編成するとプロ野球連盟(8球団)に加盟を申請した。しかし、9球団だと日程が組めないことを理由に断られた。
宇高はそこで新リーグを創立に動いた。最初に賛同したのは広島のグリーンパークス(のち結城ブレーブス)。遊興産業を持つ人物の社会人チームで都市対抗出場の実績があった。続いて海軍に飲料水を入れていた大阪の唐崎産業(クラウンズ)。この3チームで翌47年3月にリーグ戦が始まった。
夏に洋傘で財産を築いた大塚産業(アスレチックス)が加入。この4球団による夏季リーグの成績は①結城20勝10敗②大塚17勝13敗③宇高16勝14敗④唐崎7勝23敗。北海道から九州まで回った。本拠球場を持たない“ドサ周り”だった。
この間、さまざまなトラブルがあった。大企業の鐘紡、いすゞ自動車などにも勧誘の声をかけたがGHQの反対もあって頓挫。プロ野球のスター選手引き抜きは派手だった。天才大下弘は契約した後、巨人の川上哲治が動いて白紙に戻している。藤本も戻った。地方ではギャラ持ち逃げの被害もあった。
さらに宇高と唐崎は多額の財産税をかけられ会社が傾いた。秋季リーグを終えた後、運営が成り立たず解散。たった1年の寿命だった。大塚は金星を買収してプロ野球界に入り込んだ。(続)