「たそがれ野球ノート」(25)-(小林 秀一=共同通信)
◎長嶋さんの思い出
「長嶋茂雄」を失った日本列島は大きなウェーブに飲み込まれたようだった。ほぼ同じ時代を生きてきた人たちが、それぞれに長嶋さんと自分のかかわりに思いをはせた。
野球記者OBも、それぞれに長嶋さんとの接点の思い出をよみがえらせたはずである。
私は1980年(昭和55年)、巨人球団の担当記者になった。まさに長嶋さんの第一期監督時代の最終年だった。10月20日、3位巨人は広島でシーズン最終戦を終えた。私は5日後に始まる日本シリーズに備えてチームに同行せず広島に残った。
「なんにもないでしょうけど、まあ頑張ってね」とか言って、他社記者を送るが、よもや翌日に監督辞任会見が行われることなどだれも想像していなかった。
この時は現場に立ち合えなかった悔しさを味わったが、その5カ月後、留飲を下げるチャンスに巡り合うことができた。
81年3月、私人になった長嶋さんはマスコミの取材を一切遮断して口を閉ざしていたが、伊東市で行われるゴルフイベントに顔を出すという情報が飛び込んできた。
何とかコンタクトを取りたい。前日から伊東入りし、早朝からクラブハウスで待ち受けた。他社はいない。そこに現れた長嶋さん。自宅取材の要望に、こちらが拍子抜けするほどの快諾をいただき、その場で日時の約束をしていただいた。
当日、カメラマンと田園調布へ。辞任時の心境や今後の目標などをたっぷり取材するころができた。切り抜きを見ると、川上哲治氏との不仲説や正力オーナーから要請を受けた引退試合を固辞する理由など、今思うとずいぶん突っ込んだ質問をしていることに驚かされる。
そして、全く覚えていなかったが、取材中に次男(当時10歳)が応接間に飛び込んできたことにも触れている。「おう、ぼく、どうしたんだ」と長嶋さんが優しいパパの目になった、という表現で独占インタビュー記事は結ばれていた。(了)