「スポーツアナウンサーの喜怒哀楽」(18)-(佐塚 元章=NHK)
◎あまりにも悲しい早大2年生東門明選手の死
2025年夏、日米大学野球大会の季節がやってきた。47回大会は7月8、9日(北海道北広島市)11、12(新潟市)13日(神宮)で開催される。日米大学の代表選手が5試合戦い、3勝すれば優勝である。
第1回大会は昭和47(1972)年7月8日神宮球場で開幕。当時の皇太子殿下がロイヤルボックスからアメリカンスタイルの始球式を行い、勝者にはニクソン大統領杯が贈呈されることになった。第1戦は山口高志投手(関大4年―阪急)の力投で日本が快勝した。翌9日第2戦、信じられないアクシデントが、七回表に起こった。早大の監督でもあり、全日本の総監督でもあった石井藤吉郎監督は、早大からただ1人全日本に選抜した2年生の東門明選手を代打に起用、いきなり三遊間ヒットを打って期待に応えた。
一死後、1番藤波行雄選手(中大3年―中日)がセカンドゴロ、二塁手は併殺を狙い遊撃手バニスターに送球し2死、バニスターが一塁へ投げたボールが走ってきた一塁ランナーの東門選手の右側頭部に当たってしまった。東門選手は、二塁ベース付近に倒れた。米国選手は「レイダウン!レイダウン!」と叫んだという。暫くして東門選手は「大大丈」と言って自力で起き上がり、チームメイトに抱えられベンチに座った。ところがすぐに嘔吐を繰り返し、意識を失った。慶応病院に搬送され直ちに手術。診断結果は右側頭部骨折による内出血、脳挫傷だった。意識不明のまま東門選手はがんばった。両親、石井藤吉朗監督らの徹夜の看病もむなしく、6日後の7月14日午前11時35分息を引き取った。19歳の若さだった。
16日、神奈川県茅ケ崎市の実家で母校松波中、武相高のチーメイトが参列して告別式が行われた。大会は続行され、日本が優勝した。翌20日、早大の大隈小講堂で日本学生野球協会が主催するお別れ会が開かれた。日米の代表選手、早大の選手、そして当時4年生の私も参列させてもらった。バニスター選手は東門選手の両親にじっと頭を下げていた。東門選手のつけていた日本チームの背番号「13」、早大部員としての「9」は永久欠番となった。
私にとって強烈な思い出となっている第1回日米大学野球大会。それは国際試合の少なかったアマチュア野球界初の斬新な企画、「大学のワールドシリーズ」とも言われ、米国はフレッド・リン(南カルフォルニア大―レッドソックス)、日本は山下大輔(慶応―太洋)など、のちに日米のプロ野球を背負っていく人材が一堂に会する大会だった。そうした中で起こった「2年後輩の東門君の死」である。武相高から1年浪人してまで早稲田のユニフォームに憧れ入学した。2年春のリーグ戦でデビューし打撃はベストテン6位、ホームランも打った。鍛治舎巧、楠木徹ら先輩を差し置いて2年生で全日本入り、すべてが順調、当時弱かった早大のホープ、期待の星だった。
以来、私は東門君のお墓に必ずやお参りにいくと決意していたのだが、53年が経過してしまった。やっと2025年6月5日約束を果たした。JR鎌倉駅からバスで20分、富士山が見える広大な丘陵地ある鎌倉霊園に「東門家」のお墓があった。そこには東門選手のバッティング姿と経歴が刻まれた石碑があった。私は数日前、早慶戦の時に買った「W」の帽子をそっと墓石に被せた。日米大学野球代表選手は、東門明という無念の大学選手がいたことを知ってほしい。健闘を祈った。(了)