「評伝」-長嶋茂雄を偲ぶ-(高田 実彦=東京中日スポーツ)
戦後の日本は、全米水上選手権における古橋広之進と橋爪四郎の水泳の快挙、そして力道山が外国人を空手チョップでバッタバッタと倒してのプロレス人気で明けた。
この開いた細い窓をくぐって出てきた代表が長嶋茂雄と王貞治の「ON」を擁する川上巨人だった。川上哲治監督の「V9」(9年連続日本一)というプロ野球史上不滅の大記録を成し遂げた時代を取材できた経験は、わが宝である。
長嶋と同じ学年だった私は、昭和43(1968)年から東京中日スポーツの巨人担当として、ことに川上監督と長嶋を担当する「N番」だった。ONという表現を最初に紙面化したのは、神戸のデイリースポーツだったといわれている。
そのころから、プロ野球のキャンプは2月1日から始まり、その前に1月15日からは各球団がまとまって自主トレーニングをやっていた。長嶋はそれより前に、文字通りの自主トレをやるために静岡県の伊東へ行って、大仁ホテルにたてこもった。連れは、捕手の淡河弘一人とバットとボールとネットとトランク一つだった。
当時、そこまで取材に行く社はなかったが、私は巨人担当になった「新人」として取材に行かせてもらった。ホテルの長嶋の部屋は角部屋で、大きな窓越しに富士山が見え、壁には横山大観の「富岳」が飾ってあった。長嶋は富士山が好きだった。
私は、部屋に入れてもらって畳に手をついて自己紹介した。すると長嶋は、座っていた座布団からおりて、やはり畳に手をついて、
「長嶋茂雄でございます」
と深々と頭を下げてあいさつを返してきたではないか。いくら同年配だといっても、こちらはペイペイの記者、片や天下の長嶋茂雄(当時は長島だった)ではないか、びっくりした。
当時、中日新聞は名古屋進出をはかっていた読売新聞と「中読戦争」をやっていた。わが社の部会で編集局長や運動部長が、
「巨人が勝っても原稿は短くていい。ウチ(中日)が勝ったら徹底的に『巨人は弱い、ダメだ』と書け」
というほど激しい敵愾心を抱いていた。だから、私は巨人が負ければ、川上采配がよくないと書き、巨人が勝てばONをはじめ選手をほめそやしたものだった。
やがて、長嶋はユニホームを脱ぐ決意をし、”涙の場内一周の引退セレモニー”で、
「私はいまここに引退いたしますが、わが巨人軍は永久に不滅です」
という名言を残した。その後、監督になった。私も現場を離れデスクワークに回った。
長嶋は、39(1964)年の東京オリンピックで報知新聞の「ON五輪をゆく」の企画で外国人向け通訳の西村亜希子さんと知り合い、一目惚れ。相思相愛のゴールインとなった。私はといえば、日本人向け通訳だったXX明子と知り合ってオリンピック最終日の10月10日に立川で食事した。いまの妻である。
背番号「3」は、チョーさん、ミスター、燃える男、不滅のスター、永久にプロ野球史に残る名プレーヤーであった。(敬称略)