◎黒人リーグの消滅(菅谷 齊=共同通信)
「42」。この数字はジャッキー・ロビンソンの背番号で大リーグの永久欠番”なっている。ドジャース1球団だけの欠番ではないのは、近代大リーグ初の黒人選手として黒人選手の門戸を開いたからで、その“象徴数字”なのである。
黒人解放に踏み切ったのは、ドジャースがニューヨークのブルックリンを本拠にしていた時代で、仕掛け人はブランチ・リッキーGMだった。黒人選手の優れた運動神経を高く評価し、大リーグのレベル向上を見越していた。黒人ファンを増やすという観客動員政策もあった。1946年に契約し、初めはモントリオールのファームに置いた。翌47年の4月15日に大リーグデビューを果たした。
ロビンソンは黒人リーグの有望選手だった。加えてUCLA卒で頭脳明晰、人格にも優れていた。ドジャースは念入りに調査して獲得に踏み切った。最大のポイントは白人世界の大リーグに入ってからのハラスメントに耐えられるかどうかだった。耐えることを求めて契約を交わした。リッキーは何度もそれを念押ししたという。
さまざまな非難はすさまじいものだった。差別である。自伝を読むとよく分かる。観客席も別に黒人専用が設けられた。それをはねのけ、大リーグ初の新人王に選ばれ、48年は首位打者を獲得した。
ロビンソンが大リーグに登場した年は、実はインディアンスにラリー・ドビー、ブラウンズにハンク・トンプソンと2人の黒人も大リーグ入りしている。ドビーはのちに本塁打王となり中日でプレーした。
大リーグは以後、続々と黒人リーグの若いホープを獲得した。ジャイアンツのウィリー・メーズ、ブレーブスのハンク・アーロンらである。彼らは50年代からの大リーグ史に残る“ゴールデンエイジ”の一員となった。
一方で大リーグは黒人リーグを背負っていた大物選手の獲得を避けた。年齢もあったが、黒人リーグ低下の反発を恐れたのだろう。もっとも悲嘆にくれたのは捕手ジョシュ・ギブソンだった。その長打力は「黒いベーブ―ルース」と呼ばれ、ヤンキースタジアムで場外にかっ飛ばしたエピソードを持っていた。伝説の投手サッチェル・ページも声が掛からなかったが、誘われたのは50歳後半だった。
大リーグの獲得攻勢によって黒人リーグは衰退の道を歩んだ。ロビンソンが去ってから10年ほどでリーグ戦が消えた。消滅したのである。黒人ファンが大リーグの試合に押し掛けるようになったのもその要因だった。
この黒人リーグの状態を振り返るとき、日本のプロ野球が心配になる。野茂英雄をきっかけにスーパースターが毎年のように太平洋を渡って行く。大谷翔平は日本のファンを大リーグに釘付けにしている。大リーグの各球団は日本を人材マーケットとし、桁外れの契約金を支払い、高校生にまでスカウトしているのが現実である。
「野球の知識が豊富」「首脳陣を批判しない」「違反行為をしない」-この3大条件を備えている日本のプレーヤー。大リーグの行動がよく理解できる。日本球界は大丈夫なのか。(了)
