「ONの尽瘁(じんすい)」(33)―(玉置 肇=日刊スポーツ)

ここまで王巨人の初優勝(1987年=昭62)に貢献した投手陣に触れてきたが、今回は打者を取り上げたい。中でも監督の王貞治が最もデリケートな絡み方を強いられたのが、4番・原辰徳だった。
原は前年(86年)9月24日の広島戦(後楽園)で「炎のストッパー」津田恒実の外角高めストレートを強振した際、左手首を痛めた。病院での精密検査の結果は、左有鉤骨(ゆうこうこつ)骨折。左手首の小指側にある微小な骨ながら、バットのグリップを握る打者にはその食い込みや振動などバットコントロールに直結するだけに死活的な部位に当たる。細かい骨でその分、治りにくい。その痛みを、リハビリを続ける当時の原はこう表現した。
「朝、顔を洗うにも手は上がらないし、歯ブラシも持てなかった…」
「若大将」の表情が、持ち前の「さわやかさ」からかけ離れた「苦悶」に満ちていたことを覚えている。後に、原は述懐している。
「バッターとしての原辰徳は、あのケガで終わった」
現実には95(平7)年まで現役を続けたが、原にとってその骨折は、「超一流」しか知り得ない自分らしい打撃の再現が相当厳しくなったことを悟ったアクシデントだったのだろう。
それでも故障前の原は打率2割8分台、30本塁打以上、80~90打点とまずまずの成績を残しながら、一方で「チャンスに弱い」とか「4番失格だ」など、ありがたくないレッテルを貼られ始めた時期とも重なる。これは川上、長嶋、王ら、連綿と続く「巨人の4番」の定めと割り切るしかないとしても、彼らと数字で比較対象の俎(そ)上に乗せられる点で、原には、分の悪い「世評」といえた。
わたしは、思う。王は、原のそうした立場を理解していた、と。
80年シーズン終盤の現役晩年。「王貞治としてのバッティングができなくなった」ともがき苦しんだ際、あの冷静な王でさえスタンドからのヤジに色をなしたことがあったと聞く。
原の場合は故障からの復帰をかけた調整であり、引退となった王とは事情が異なるが、打撃の不調がいかにみずからを苦痛の底に打ち沈めるか。それを知る「巨人の4番」の先駆者だったからこそ、原の思いに自身の経験をリンクできたのではないか。
長期離脱が必至となったとき、王は、原を慮って、こう言った。
「やっぱり4番をずっと打って来た男ですからね。『4番失格』とか言われても、それがケガで離脱するとなったら、チームにとってはやはり大きなマイナスですよ」
これは推察でしかないが、王がロッテ落合博満の「トレード獲得騒動」で積極的に動かなかったとされるのも、原に対する「危惧」があったからではないか?原にとって、落合加入は4番降格とともに野球人生の今後を左右しかねない出来事であったはず。入団以降日の当たる場所を歩き続けてきた「若大将」に、戦列復帰以上の課題を与えることは必ずしも得策ではない、というような…。
打撃コーチにキャラクター的にも明るい山内一弘を迎えたことも、原の復帰のうえでモノを言った。「やめられない、とまらない」熱意あふれる指導ぶりから〝かっぱえびせん〟の異名を持つ山内は、王の指令を受け、来る日も来る日も原とマンツーマンで練習に取り組んだ。原も音を上げず、山内の指導についていった。インパクトの瞬間に伸び上がって打つクセがなくなり、弱点の内角球対策では右手をかぶせてこねる悪習もなくなった。
それでも、王は決して原に無理はさせなかった。オープン戦で右太もも肉離れを起こしたこともあったが開幕から10試合はスタメンから外し、まず6番からスタートさせた。あせらせて中途半端な状態で4番に据えても不調に陥れば原自身も立ち直るのが難しい。「4番復帰は誰もが納得した段階で」。王はそのタイミングを探り続けた。そして、50試合目に当たる6月13日のヤクルト戦(後楽園)。満員のファンからの大声援を受け、「4番・原」が戻って来た。原はその試合で、王の気持ちに応えるように、復活のアーチを左翼席に架けている。
その生還を、ベンチから破顔一笑で迎える王の姿が印象的だった。
原はさらに、ペナントレースのど真ん中の65試合目。7月3日の阪神戦(甲子園)で放った先制2ランが王巨人初の首位ターンを導き出した。
「これでボクも巨人の4番打者として少しは認められたでしょう」
原が取り戻した「若大将スマイル」と「巨人の4番」のその先に、王の「初優勝」がくっきりと浮かび上がった。(続)

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