「菊とペン」(27)-(菊地 順一=デイリースポーツ)

◎新人時代の一番の思い出は…
 この春の一か月は、社会人になった人たちにとって慌ただしい日々だったろう。また、新入社員を迎えた会社も、まだ学生気分の抜けないルーキーの扱い・指導に困っている先輩や上司もいるだろう。
最近は指導の一環で「叱る」と「パワハラではないか」と訴えられるケースが激増しているとか。その気になれば新入社員の方が強く出ることができる。つくづく世の中、変わったと思う。
いまから40数年前、私も1人の新入社員としてスポーツ新聞に入社した。編集で採用されたのは2人、神戸本社で1週間ほど研修を受けて東京本社への配属となった。
で、すぐに現場である。最初は西武球場である。先輩と西武球場前で待ち合わせて、いざベンチへ。それまで西武にはあまり興味がなかったが、予習のおかげでなんとか顔と名前はわかった。
ただひたすらウロウロし、ただひたすらベンチに座って様子を見ていた。相手側ベンチへ移動、ここでも同じである。
先輩はなにも教えてくれない。記者席に着くと、「雑感を出せ」の一言。ハッ、雑感?それはなんですか。ここで一発叱られた、いや怒られた。
試合後の取材も他社の記者をただ眺めているだけで、どうしていいか分からない。もちろん、雑感は書けない。帰りの電車の中で先輩から池袋に到着するまでずっと説教である。いろいろ言われました、ハイ。
その夜、布団に入った私は滂沱(ぼうだ)として枕を濡らしたのです。(笑)
翌日は後楽園球場で巨人戦の取材だった。別な先輩が指導係だったが、やはり何も言わない。ワクワクしながら一塁ベンチに行くと、長嶋監督がいる、アッ、王貞治だ、柴田勲、堀内恒夫ら、これまでテレビや新聞、週刊誌などで見てきた巨人のスター選手がいるではないか。当たり前のことだが、至近距離で初の「生巨人」に接してなぜか驚きしかなかった。
この日は少し余裕があった。「後楽園は意外と狭い」と思った覚えがある。とはいえ、この日も何もできない。練習を眺めているだけである。雑感提出が心に重くのしかかっていた。
練習が終わってもベンチ周辺を歩き、また内部に通じる階段を昇ってキョロキョロしていた。すでに時刻は午後5時を回り、だれもいない。雑感を出さねばならない。頭の中はこれでいっぱいだった。
5時半頃だった。急に尿意をもよおした。ずっと行っていない。一塁側ベンチに行く階段の右側にトイレがあった。
さあ、どうしよう。前を向いて用を足していた。その時だ。左側からギィッと扉が開き、そしてカツカツとスパイクの音が響いた。だれかが来た。でも、なぜかその方向を向けなかった。すごいオーラというか、圧倒的な存在感というのか、熱の塊というのか。前を見るしかなかった。
スパイク音が止まり、私の右側に立った。数秒後、恐る恐る首を右側に回した。もしや…そう長嶋監督だった。目と目が合った。試合直前で厳しい表情である。慌ててチャックをしめてトイレを飛び出した。しばらくドキドキが止まらなかった。
本当は記者が居てはいけない時間だったのだろうが、だれも教えてくれなかった。この日も雑感を出せずに終わった。
だが感激していた。あの天下の長嶋茂雄と偶然とはいえ、2人並んでの「出来事」である。いまでもハッキリと記憶している。
スポーツ新聞に入社して良かった。記者になって良かった。つくづく思った。前夜の先輩の叱責を忘れた。
いまほど新入社員教育などは充実せず、パワハラなんて言葉がない時代だったが、それはそれで良き時代ではなかったか。
私にとっては新入社員時代の取って置きの思い出話である。(了)