「100年の道のり」(97)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

◎水原、ただいま帰ってまいりました
 劇的なシーンだった。1949年7月24日、後楽園球場。巨人の水原茂がシベリヤ抑留から帰国、ファンの前に姿を見せたのである。
 「水原、ただいま帰ってまいりました」
 高松商時代に甲子園球場で、慶大時代に神宮球場でスマートなプレーを見せてファンを沸かせたあのスターが戻ってきた。観衆は大きな拍手を持って迎えたシーンだった。
 水原は20日に舞鶴港に到着。4日後に汽車で午前10時過ぎ東京駅に到着すると、その足で球場に向かった。この日は巨人-大映のダブルヘッダーで、第1試合前に“万感の帰還挨拶”となった。
 試合は巨人が連勝した。第1試合は別所毅彦が2-0の完封。第2試合は藤本英雄が6-1の完投だった。第1試合の相手投手はかつて同僚だったビクトル・スタルヒン。水原にしてみれば複雑な心境だっただろう。第2試合では川上哲治が本塁打を放った。
 球史に残る水原の言葉は巨人だけでなく、球界の新たな歴史を作る号砲でもあった。この試合を指揮していた三原脩との関係は、宿命のライバルと位置付けられ、その後のプロ野球人気に大きな役割を果たすことになる。
 帰国した水原はすぐ巨人に復帰となったものの、シベリヤでの生活は体力を奪い、プレーヤーとしては無理だった。二軍の指導役として活動することになった。二軍は結成されたばかりで、選手集めが急務の状態。新人テストに水原は立ち会った。
 水原は9月初旬、北海道遠征中の旭川で二軍代理監督として合流する予定を組んだ。二軍監督の内堀保が捕手として一軍に呼ばれ、監督不在となったからだった。球団は試合告知のポスターに水原の写真を使ったのだが、水原は不参加。水原目当てのファンは各地で怒りを示した。新たな代理監督が試合の度に頭を下げるという醜態となった。
 その間、水原は多摩川の二軍の寮に住み込み、新人テストで獲得した6選手を指導していた。この中に水原が一軍監督として起用、51年に新人王となった左腕の松田清(東京・中野中)がいる。

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