「ONの尽瘁(じんすい)」(31)―(玉置 肇=日刊スポーツ)

1987(昭62)年は巨人にとって4年ぶり、王貞治には待望久しい「初優勝」となった。ここでは番記者だったわたしが挙げる優勝の「立役者」について言及したい。正直言うと、1人に絞ることは難しいシーズンだった。記者投票によるMVPは、山倉和博が巨人捕手のポジションで史上初の選出となった。打者では首位打者を獲得した篠塚利夫が挙げられるだろうし、投手陣では2年目で15勝とチームの勝ち頭となり最優秀防御率(2.17)にも輝いた桑田真澄の成長も挙げられよう。
そんな中、わたしは、鹿取義隆を押す。理由は言うまでもない。130試合制でそのほぼ半分の63試合に登板し、7勝4敗18S、防御率1.90の数字を残した。登板の内訳は中継ぎで23試合、抑えで40試合。連投、連投の酷使に耐え抜いた功績に対して、敬意を表したい。
ピッチャー交代を告げるためマウンドに向かう王に、球場のファンも、ナイター中継に見入る〝にわか評論家〟たちも、「ここは、鹿取だ!」と、その起用を先回りして予想するのが倣(なら)いとなった。それでまた鹿取は投げるたびにピシャリ抑えてチームの危機を救うものだから、抑えの切り札はいつしか「鹿取大明神」の称号を冠するまでになった。一方で王の鹿取へのこのこだわりは「王(ワン)パターン」と揶揄(やゆ)されたものだった。
今の時代ほど先発、中継ぎ、抑えの役割が明確ではなかった当時にあって鹿取の登板数の多さは異例だが、むろんシーズン当初から想定されていたわけではない。前年抑えの切り札として機能したサンチェが調整不足に加え首脳陣との確執も生じると、王もさすがにこの「カリブの怪人」を守り切れなくなった。ために角三男から鹿取、さらにサンチェにつなぐ「三段締め」リレーは前年ほどの威力を保てなくなっていたのだ。
抑え不在こそ、王には最も悩ましい問題だった。主にワンポイントや1イニング限定登板で鹿取に次ぐ57試合に登板した角にロングリリーフを課すのは酷だったし、信用をなくしたサンチェに大事な局面を任せられない。そんなチーム事情下で浮上したのが、地肩が強く、ブルペンでも数球で肩が仕上がる鹿取の存在だった。
王は鹿取に「覚悟」を求めた。「鹿取、俺はお前が自分の仕事をやってくれれば、必ず優勝できると信じている。荒っぽい使い方になるが、いいか!」。
返す刀で、鹿取も答えた。「僕は毎試合でも投げられます。酷使なんて気にしないでください」。
当時、王の投手起用に「1つのパターンがある」と指摘する球団関係者がいた。「うちの監督には、型にはまった継投をしたがる傾向が強い。うまくいったときの継投にはすごくこだわるというか…」。何と言われようと、勝負どころで鹿取を注ぎ込む戦略はそんな傾向の現れだったかもしれない。
7月1日のヤクルト(神宮)戦で、こんなことがあった。巨人はこの時点で首位ながら2位に2ゲーム差と迫られていた。下位チームの取りこぼしがペナントの展開を左右すると見られた3連戦で先勝し、同日の2戦目は落としたくない一戦だった。3点を先制しながら先発江川卓がまさかの不調で2回途中6失点KO。それでも味方打線の爆発で8-7と一時はひっくり返すが、以降4投手の継投でもリードを守れず8-8に。最後は鹿取が2イニングを抑え、辛くも引き分けにもちこんだ。王は試合後、まずは報道陣のぶらさがり取材に答える慣行をこのときばかりはさえぎって、マウンドに直行。「ありがとう!」と大声でその奮闘をたたえ、鹿取の右手を強く握った。番記者として初めて見るシーンだった。
勝ちはしなかった。が、負けもしなかった。前年、わずか「1勝差」で広島に逆転優勝を許した怨念が骨髄まで達した王が心の底から絞り出す鹿取への「謝意」だった。(続)

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