第47回 男の友情 背番号3- (島田健=日本経済)

◎裕次郎も惚れた
▽入団前に対談
1956(昭和31)年に映画「太陽の季節」でデビューした石原裕次郎(34年12月生まれ)はたちどころにトップスターとなった。忙しすぎて慶大は中途退学したが、野球好きなので、立大で六大学野球新記録(当時)の8本塁打を記録した1学年下の長嶋茂雄(36年2月生まれ)には並々ならぬ関心を持っていた。
長嶋が巨人入団する前に対談の企画が持ち込まれた。これがスーパースター2人の友情の始まりとなった。
▽米国漫遊奇談
石原と北原三枝との結婚式に出席した長嶋は62年1月には夫人と3人で米国に渡った。その珍妙なエピソードがいろいろなところに残っている。
飛行中、タバコを吸い始めた長嶋が、乗務員に注意されたところ腕に押し付けた消した。
ニューヨーク5番街の高級帽子で石原に一つすすめれらた長嶋が「自分はヘルメットが一番似合うんだ」と断った。
ブロードウェイで観劇したりして疲れた石原の足をホテルで長嶋がマッサージしたとか。とにかく仲が良かったらしい。
▽裕次郎節
長嶋が新人王をとった翌年の59年に発表されたのがこの唄である。もちろん石原の発想だろう。
作詞は「銀座の恋の物語」「夜霧の恋の物語」などを書いた大高ひさを、作曲は「俺は待ってるぜ」「赤いハンカチ」の上原賢六(上原げんとの弟)。当然、石原の声を生かした裕次郎節である。
「背番号3 言わずと知れた 男長嶋イカスじゃないか 打って走って つかんで投げて 茂よ頑張れかっ飛ばせ」
いやー、格好いいこと。
▽三冠王はならず
1番の最後のフレーズの「晴れのペナント飾るまで」は完璧なまでに達成できたが、3番の「打ってけ三冠王 秘めた誓い果たすまで」はとうとう達成できなかった。
男、長嶋茂雄にとっては心残りの唄にもなったが、最も残念だったのは石原が87年に急逝したことだろう。石原プロがピンチの時には援助を申し込んだり、病院に見舞いに行ったりと、友情の厚さを示す行動をとっていたが、友の運命を変えることはできなかった。
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