「インタビュー」日本人大リーガー第1号 村上雅則(5)「その時を語る」ー(聞き手・荻野 通久=日刊ゲンダイ)

1964年(昭和39年)9月1日、サンフランシスコ・ジャイアンツの1Aフレズノ・ジャイアンツからメジャーリーグに異例の昇格を果たした村上。9試合で1勝0敗1セーブ、防御率1・80の数字を残して12月に帰国した。「ヒーロー」の凱旋になるはずだったが、待っていたのが日米球界を揺るがす大騒動だった。
―当初は3か月の野球留学。それがシーズン終盤にメジャーに昇格して公式戦終了。当時の村上さんの気持ちはどうだったのですか?
村 上「アメリカでやる自信もついてきたし、生活にも慣れてきた。来年もアメリカでプレーしたいというのが正直な気持ちでした」
―サンフランシスコ・ジャイアンツは村上さんの残留に積極的だったようですね。
村 上「渡米前にアメリカで何かあったらこの人に相談しろ、とキャピー原田さん(日米球界の橋渡し役として活躍した日系人)を紹介された。その原田さんからシーズン終了後に『ジャイアンツでプレーすることは南海(現ソフトバンク)もOKしている。来年もアメリカでやっていい』と言われた。それで帰国する前、11月にジャイアンツと来年(65年)の契約書にサインした。そのことはアメリカの新聞にも大きく報じられた」
―それで南海もマスコミも大騒ぎになったのですね。
村 上「シーズンはとっくに終わっているのに、村上はなかなか帰国しない。おかしいなと思っていたところに報道が出た。その前から『とにかく帰って来い』と南海からは連絡はあったのですが、それで態度を硬化させたようです。『村上をアメリカに行かせたのはあくまで“野球留学生”としてだ。譲渡などしていない』と。日本で問題になっているなんてまったく知らなかったので、ロスでひと息入れたり、ハワイに寄ったりして帰国したのが12月半ばでした」
―成田空港では大勢の記者やカメラマンが待機していたそうですね。
村 上「飛行機に有名な女優さんなどが乗っていて、サインを求めたら断わられた。タラップから報道陣が見えたので、女優さんを待っているのだなと思ったら、係の人が私に最後に降りてください、と。女優さんはタラップを降りてカメラマンに手を振ったら、『お前じゃない!早く降りろ!』と言われてました」
―65年度の契約に際して、ジャイアンツは南海に村上さん獲得のトレードマネーとして1万ドル(当時のレートで360万円)を払っています。
村 上「1万ドルはトレードマネーではなく、南海はあくまで(村上が)メジャーで活躍してジャイアンツに貢献した功労金と思ったようです。もちろん、そうした経緯を知ったのも帰国してからでした」
―1964年に村上さんたちが渡米する前、南海とジャイアンツが結んだ契約書の中には「ジャイアンツは1964年のシーズン閉幕時に1契約1万ドルの報酬をもって、契約書に記載された選手(注・村上雅則、高橋博、田中達彦)の出場に関する諸契約の獲得及びいっさいの権利を保有する」という項目があります。これを見る限り、ジャイアンツの言い分が正しいように思えますが…。
村 上「帰国して球団事務所に行って話を聞いても、『村上は南海のものだ』というだけで要領を得ない。ジャイアンツは『契約は契約だ』と一歩も譲らない。どこへ行っても報道陣やファンから注目され、追い回される。山梨の実家にまでやってくる。ある時、報道陣を避けようと旅館に泊まったら、隣の部屋に新聞社の記者がいた。私がトイレに行くと様子を見に部屋から出てくる。日本旅館なので仕切りは障子一枚。聞き耳を立てて私の動きを探っていたのですね。なんだか自分が犯罪者にでもなった気分でした」
―ジャイアンツが村上さんに固執したのは、契約もあるでしょうが、それだけ実力を高く評価していたからではないですか?
村 上「当時、アメリカの地元紙に『ムラカミの人気はウイリー・メイズと同じだ』と書かれた。メイズは走攻守三拍子揃ったメジャーを代表する選手で、ジャイアンツの4番打者。チーム一の高給取り(15万ドル)でした。サンフランシスコやその近辺には日系人も多く住んでいたから、営業的にも求められていたのでしょうね。まあ、ジャイアンツと契約したメジャー2年目の私の年俸は7500ドルでしたから、こちらはメイズの足元にも及ばなかったですが(笑い)」
―次回は騒動がどうなったかをお聞きします。(続)