「菊とペン」(54)-(菊地 順一=デイリースポーツ)

◎エッ、サヨナラ本塁打で代走?史上初の珍事とは…
前回の今コラム、18歳・高校出の新人投手が達成した史上初の大記録の思い出を書かせてもらった。
1987年8月9日、ナゴヤ球場での中日対巨人戦で、中日の近藤真一(現在は真市)が達成した1軍公式戦初登板初先発ノーヒットノーランである。
30度を軽く超える名古屋の夜、三塁側の巨人ベンチはむせ返るような酒の匂いが充満していた。
冗談ではなく息をしたくなかったほどである。これが近藤の大記録に少しでもアシストしたと思っている。こんな記事である。
お読みでない方はぜひ当ホームページ前月分をご覧いただきたい。
現役時代、ナゴヤ球場で「史上初」の出来事と言えばもう1つあった。
91年6月18日の中日対大洋(現DeNA)11回戦だった。
この試合はもつれにもつれ、6対6で延長戦に突入した。その直後の10回裏2死、6番・彦野利勝の打球は低い弾道で左翼フェンスをギリギリ越えた。サヨナラ本塁打である。
一塁側ベンチから星野仙一監督以下、全ナインが飛び出した。ナゴヤ球場の中日ファンはバンザイである。
しかしヒーローは一塁ベンチを回ったところで突然よろけると、そのまま前に倒れた。立ち上がれない。
彦野は低い弾道だったので「届かないかも」と思って全力疾走、古傷の右ヒザを痛めてしまったのだ。
さあ、どうなる。彦野の周囲を星野監督以下、ナインが取り囲んだ。インプレー中である。
ここを仕切ったのが平光清球審だった。「(彦野に)触るな!」と大声を出しながら一塁に走り中日の動きを制した。
ルールではいくら打者が本塁打を放っても、ベースを一周して本塁を踏まなければ得点にはならない。
そこで平光審判は星野監督に代走を要請し、試合に出ていない山口幸司を一塁から走らせた。
もちろん、野球規則で認められている「代走ルール」である。
騒然としていたナゴヤ球場が落ち着きを取り戻し、中日のサヨナラ勝ちを声援で確認した。
平光審判が中日の動きを制したのはあとで大洋から「関係のない者がプレーヤーの手助けをした」と抗議されてトラブルになることを避けたのだ。
調べてみるとこの「代走ルール」ができたのは55年からだった。
69年5月18日に行われた阪急対近鉄戦(西宮)の2回表にも同じようなハプニングが起こっていた。
近鉄のジムタイルが本塁打を放ちながらも一塁手前で左足の肉離れを起こして走れなくなった。代走の伊勢孝夫がベースを一周して本塁を踏んでいた。
この年のジムタイルは8本塁打で得点7という記録になっている。
平光審判は55年にできた「代走ルール」をセ・リーグで初めて適用した。
彦野以降、このようなケースは出ておらず、サヨナラ本塁打ではプロ野球史上初の出来事、いわば〝珍事〟だった。
なお調べてみた。「代走ルール」ができる54年以前は本塁打を生かしたければ、ケガをしようがなにをしようが、打った本人が這ってでも本塁まで帰らなければならなかったという。
果たしてこのようなケースはあったのか。実例は不明である。(了)