「菊とペン」(55)-(菊地 順一=デイリースポーツ)
◎甲子園が「ナンパ合戦」の場となった日…
甲子園の上空に日をまたいだ中秋の名月がきれいに輝いていた。
1992年9月11日の深夜、いや正確には12日の午前1時過ぎだった。甲子園球場周辺は人、人、人であふれかえっていた。そして、あちらこちらで「ナンパ合戦」が繰り広げられていた―。
この日、甲子園での阪神対ヤクルト戦は、阪神ファンが「あの1勝があれば…」と語り継ぐ1戦となった。
当時、遊軍記者である。阪神は首位のヤクルトにゲーム差「1」と迫って3連戦の緒戦に臨んでいた。
阪神は中村勝広監督、ヤクルトは野村克也監督である。
午後6時プレーボール。両者ともに譲らず3対3で迎えた9回裏、阪神はチャンスをつかんだ。2死一塁で打者は「代打の神様」八木裕だった。
フルカウントから岡林洋一のストレートを捉えた。打球は左翼スタンドへ伸びて行った。一塁走者のパチョレックが全速力でベースを回る。背走した左翼・城友博がフェンス手前でジャンプした。
平光清・二塁審判の右手が回った。劇的なサヨナラ2ラン。甲子園にファンファーレが鳴った。熱狂の渦だ。スコアボードに「2」と「×」が入る。お立ち台が用意された。
「終わったな…」これでゲーム差なしか。エッ?ところが野村克也監督を中心に左翼付近に輪ができていた。
「ラバーの最上部に当たってからフェンスを越えて入った」
野村監督が執拗に抗議した。当時はビデオ判定によるリクエスト制度などない。これで判定が覆った。2死二、三塁で試合再開である。
今度は阪神が激怒した。当たり前だ。一度は勝利をつかんだのだ。
「こりゃ長くなりそうだな…」
案の定、中村監督の説得には時間がかかった。長い話し合いの末に提訴試合にすることを条件に再開。37分の中断だった。
この時点で10時半を越えていた。両軍ともに譲らない。当時は延長15回で決着がつかなかった時は、引き分け再試合だった。
15回裏に阪神がチャンスを逃してゲームセット。残塁数は阪神19、ヤクルト13だった。
時計の針は深夜0時26分をさしていた。試合時間6時間26分。いまだに破られていない史上最長試合となった。
原稿は社内で処理したが、それでも球場を出たのは午前1時過ぎだった。阪神電鉄は臨時便を出して対応したが、混乱に乗じて白タクが続々と出現した。
甲子園には試合の行方を見届けようと2万を超える熱心なファンが残っていた。
さらに帰宅困難に陥った女性ファン目当てのナンパ車が集結した。神戸ナンバーはもちろん、大阪、京都方面の車が列をなした。球場周辺の道路は大混乱だ。
「自宅まで送っていくよ」「ドライブがてら遊びに行こう」「車をどこかに置いて飲みにいこうよ」「君、カワイイね」
下心丸出しのオオカミたちが必死で女性を口説いていた。それを横目になんとかタクシーで宿舎のある大阪に帰った。
この年、ヤクルトが優勝し、阪神は巨人とともに2位でシーズンを終えた。あの八木の本塁打が「幻」ではなく「現実」だったらどうなっていたか…。
平光審判はこの年限りで退職した。中村監督に辞意を伝えて試合再開にこぎつけていたのだった。
それにしても、中秋の名月もまさか日をまたぐ15回の激闘とナンパ合戦を見せられるとは思わなかっただろう。(了)