「菊とペン」(59)-(菊地 順一=デイリースポーツ)
◎ナベツネさんのご冥福を祈ります
昨暮れ、読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏が亡くなられた。98歳、大往生である。
渡辺氏が副社長から社長に就任したのは1991年5月である。この年の4月30日、読売のドンと言われた務台光雄名誉会長が94歳で亡くなり、渡辺氏は既定路線で後継者となった。
当時、私は巨人担当だ。藤田元司監督が復帰して3年目だった。巨人は早々に優勝争いから脱落しており、その低迷ぶりは際立っていた。
我々スポーツ紙の巨人担当記者たちは渡辺氏を徹底的にマークした。夕方から夜にかけてだ。間違いなく酒が入っていた。有名ホテルの行きつけの店や馴染みの料亭…ほとんど毎日でしかも赤ら顔での対応である。
どんなことを聞いても、べらんめえ口調で答えが返ってくる。藤田監督への采配批判や監督人事、補強戦略、現在の球界在り方や問題点、度肝を抜く話題を振ってくることもあった。
「読売奥の院」のトップの声を生で聞くことができるようになった。これは巨人担当記者たちにとっては画期的な出来事だったと思う。
それまで巨人を動かしていたのは務台さんを頂点とした一部の読売首脳だったが、その肉声を我々が直に聞くことは極めて難しかった。
「務台さんがこう言ったらしい」「最近の試合に腹を立てているそうだ「コーチ陣に不満を持っているとか」
伝聞推定でしか伝わってこない。巨人フロント幹部がこう話したことがあった。「(務台さんは)我々だってそう簡単にお会いできる方ではないんだ」
1988(昭和63)年の8月末、王貞治監督の去就が大詰めを迎えていた。続投かそれとも否か。
巨人は首位・星野中日に7ゲーム差を付けられてリーグ連覇は切望的だった。
巨人の球団事務所は旧読売新聞車内の9階、社員食堂も同じ階にあった。務台さんは廊下を歩き食堂に足を運ぶ。
現在の巨人をどう思っているのか。ぜひ聞きたい。直撃を決めた。午前中から廊下を眺めていた。
スリッパをはいた92歳の務台さんが現れた。
「会長、巨人ですが?」
右手を振って大声を上げた。
「だれにも会わん!あっちへ行ってくれ!」
取り付く島もない。その日、巨人から「今後、務台さんへの取材は止めるように」とお達しが出た。
これがごく普通であり、当たり前だと思っていた。
だが、60台前半の新リーダーは政治記者だったこともあり、同業者である我々の取材に真正面から応じた。取材する側から取材される側になって、結構楽しんでいたのかもしれない。
取材をすればするほど紙面になる。だが我々も調子に乗り過ぎた。
「ナベツネ吠える」「ナベツネ酔弾」「ナベツネ暴言」など。紙面に大見出しが踊った。いま振り返ると、失礼にも程がある。よそ様の会社のトップを略称で呼び捨てである。
これはある日を境に終わった。渡辺さんが「オレを呼び捨てとは何事だ」と怒っているという話が各社に伝わり自重したのである。以来、スポーツ紙は「ナベツネさん」「渡辺社長」となった。
大物らしく毀誉褒貶はあった。あったが、本来は開けっぴろげで大らかな性格の方なのだ。
「オレはしゃべらない」と言っても長続きしない。取材拒否はなかった。スポーツ紙の記者にはありがたい方だった。
「生涯一記者」を貫いた。亡くなる直前まで編集作業に携わっていたと聞く。
偉大な言論人のご逝去に心からご冥福をお祈りいたします。(了)